星稜高OBは多士済々!松井秀、小松辰、山本省ら

2011.12.18


「スピードガンの申し子」小松辰雄【拡大】

 松井秀喜は星稜高での3年間、監督の山下智茂から毎年、目標を課せられた。入学してすぐに「石川県一のバッターになれ」。2年生になると「北信越一のバッターになれ」。そして、3年生では「全国一のバッターになれ」−。その“ノルマ”を次々と達成していった。

 「僕の原点は星稜での高校野球です」

 平成2年、1年生の春から4番を打ち、その年の夏に甲子園デビュー。初戦敗退でノーヒットだったが、初めて甲子園の打席に立ったとき、左打席からの風景が野球漫画「ドカベンと一緒だと思った」。翌3年夏の3回戦(竜ヶ崎一)で甲子園1号を放つなど、4強入りに貢献。3年生になった同4年春に宮古との開幕戦で2打席連発と、大会記録に並ぶ1試合7打点をマークした。2回戦の堀越戦で1大会3本目、自己通算甲子園4号本塁打を放つなどして8強入り…。

 そして、優勝候補といわれた最後の夏。2回戦の明徳義塾戦で「5打席連続敬遠」の主役となる。敬遠策の是非はともかく、感情を表に出さず、淡々と一塁に歩いた姿には風格があった。山下が課した「全国一のバッター」となったことを証明するシーンでもあった。

 「あのときはまだ高校生だったし、複雑な気持ちだった。でも、振り返ると、あれがあったから、その後の自分がある。今では感謝するぐらいの気持ちです」

 自身が語る通り、松井の原点は高校野球。その後の、巨人−大リーグでの活躍につながっていく。

 星稜の名を初めて全国にとどろかせたのは、小松辰雄だ。昭和37年創部の星稜は、42年に山下が監督になって力をつけた。51年夏、石川県勢として初の甲子園4強に導いたのが、2年生右腕の小松だった。甲子園大会の歴史を彩る剛腕となった小松は、中日入りした後も150キロ台の速球を連発。当時から使われ始めた「スピードガンの申し子」と呼ばれた。リリーフと先発で通算122勝50セーブ。最多勝2回、最優秀防御率1回、沢村賞も獲得し、中日のエースとなった。現在は解説者を務める。

 小松の時代以降、星稜は甲子園の常連に。山下の胸中では、北陸地区から初の全国制覇の夢が膨らみはじめる。甲子園史上に残る名勝負、箕島高(和歌山)との延長18回の激闘は、昭和54年夏の3回戦だった。左腕エース・堅田外司昭(松下電器)、3番・北安博(大洋−日本ハム)、1番・若狭徹(中日−同球団職員)らがいたチーム。1−1で延長に入った後、2度も1点勝ち越しながら、そのたびに本塁打で追いつかれた。最後は、引き分け再試合目前の18回裏にサヨナラ負け…。

 その試合、6番・右翼で2安打したのが音重鎮(おと・しげき)。浄土真宗のお寺の息子は、中日で強肩・好守、しぶとい打撃で活躍した。コーチを経て現在はスカウト。

 俊足の遊撃手で鳴らした湯上谷宏(ゆがみだに・ひろし)は、甲子園出場4回。ドラフト2位で南海入りし、ダイエーで引退後は球団営業部員やコーチを務め、今年から合宿所の寮長。同じ南海(ダイエー)には右腕・村田勝喜も入団。2ケタ勝利3回を記録し、西武と中日でもプレーした。

 村松有人は平成2年夏の甲子園、1年生4番・松井の後の5番を打った先輩。ダイエーとオリックスで俊足の1番打者を務め、盗塁王1回。シーズン30盗塁以上を4回マークした。現在はソフトバンクのスカウト。

 監督・山下は、就任29年目でついに、決勝の舞台に立つ。平成7年夏。2年生左腕・山本省吾を擁して石川県勢として春・夏で初の大舞台だったが、帝京の前に散った。

 山本は慶大で21勝を記録して近鉄に1位入団。オリックスで主に先発として活躍し、横浜に移籍。今季は開幕投手も務めた。

 全国制覇の夢を果たせないまま、山下は平成17年に勇退。「花よりも、花を咲かせる土になれ」と説き、グラウンド横の花壇で部員に花を育てさせた野球の指導者は、監督生活を38年で終えた。山下の退任を誰よりも惜しんだのが、宿敵・箕島の元監督、甲子園優勝4回の尾藤公だった。

 「雪国で長い間、苦労してきた。あの人には優勝監督になってほしかった」

 昨年9月30日。あの延長18回を戦った当時の星稜と箕島のナインは、31年ぶりに甲子園で“再戦”した。車いすに座る尾藤の姿もあった。尾藤は、その5カ月後の今年3月に亡くなる。葬儀で山下は「尾藤さん、ありがとう」と遺影に語りかけた。

 「あの名勝負を後世に伝えよう」−。その“再戦”を機に、こんな声が箕島側から上がった。星稜がある金沢市と、箕島の地元・有田市は今年9月、「スポーツ交流都市」の協定を結んだ。高校野球は野球人同士だけではなく、町と町も結びつける。=敬称略(次回は来年1月6日掲載、富山県編)

 

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