富山は公立勢が圧倒!新湊高が甲子園で旋風

2012.01.08


紺田敏正今季から日本ハムに復帰【拡大】

 2つの旋風があった。富山県勢は、甲子園のファンに強烈な印象を残した。

 魚津高の「蜃気楼(しんきろう)旋風」は、昭和33年の夏。蜃気楼は魚津市の沖合でよく見られ、同市は「しんきろうの見える街」を代名詞にしている。

 旋風の立役者は右腕・村椿輝雄だった。1回戦で優勝候補の浪華商(現大体大浪商)を4安打完封。2回戦では明治高を破り、3回戦でも桐生高を4安打完封した。そして、準々決勝で板東英二の徳島商と歴史に残る名勝負になる。

 0−0で延長18回引き分け再試合に。徳島商編でも触れたが、「延長18回引き分け再試合制度」は、この年の春の四国大会での板東の熱投(高知商戦で16回、高松商戦で25回を投げ抜く)がきっかけで制定。適用第1号も板東の試合で、この魚津vs徳島商だった。「剛」の板東に立ち向かった「柔」の村椿はファンの喝采を浴びる。

 「これだけテレビで“いい人間”というイメージを作り上げても、彼と比較されると僕の方が悪役になるんです」

 タレントとして大活躍の板東だが、村椿との投げ合いの話になると苦笑いが出る。ふたりはその後、何度も対談などで再会。「君の球は遅すぎて打てなかった」と笑いを取る板東に対し、村椿は「板東さんには完全に抑えられた(25三振)。引き分けたのはバックのおかげです」。キャラクターも好対照だった。

 再試合で村椿は先発せず(救援登板)、チームは1−3で敗退。だが、魚津ナインの凱旋(がいせん)を1万人の市民が出迎えた。村椿は三菱重工に入社。ニューヨーク勤務などを歴任した。魚津高は翌34年夏も甲子園に出たが、以降、大舞台に姿を見せていない。

 「新湊旋風」は昭和61年春だった。チーム打率は出場校の中で最低。組み合わせ抽選会で初戦の相手に決まった亨栄高(愛知)ナインは、バンザイして喜んだ。監督は新湊の練習偵察には行かず、2回戦で当たると思われるチームの偵察に出掛けたほど。大会ナンバーワン左腕・近藤真一(中日)を擁した優勝候補だけに無理もなかった。

 新湊は近藤に3安打に抑えられたが、エース・酒井盛政が自らの三塁打で奪った1点を守って2安打完封勝ちを飾った。関東大会優勝校・拓大紅陵(千葉)にも逆転勝ち。京都西(現京都外大西)との準々決勝では、延長14回にボークで決勝点…。春・夏の甲子園で、富山県勢として初の4強入り。大会後、酒井らナインには3000通以上のファンレターが届いた。

 新湊は昨年夏の甲子園に5回目の出場。初戦を突破した。

 歴史と伝統を兼ね備えた2大勢力は、大正7年創部の富山商と、同12年の高岡商だ。両校は、甲子園出場回数(20回)と勝利数(8)でピタリと並んでいる。

 高岡商の昭和43年春・夏出場の捕手が土肥健二だった。ロッテで長く活躍し、「神主打法」が代名詞となった選手の一人。その打法をロッテの後輩・落合博満(前中日監督)も参考にした。

 昭和62年夏出場の3番・遊撃手は進藤達哉だ。好守備で鳴らし、横浜で遊撃、二塁、三塁を守りゴールデングラブ賞3回。レギュラーとして38年ぶりの日本一に貢献した。オリックスでもプレーし、同球団の守備コーチやスカウトに。今季から独立リーグ・富山の監督を務める。

 現役には紺田(こんた)敏正がいる。国士舘大から日本ハムへ。俊足の外野手、甘いマスクで人気者になった。昨季、巨人で戦力外通告を受けたが、今季から日本ハムに復帰する。

 富山商の全国大会初出場は、高岡商から3年遅れの昭和15年夏。同42年夏に甲子園初勝利をあげた。そのときの二塁手・吉岡悟は東京(ロッテ)入り。太平洋(西武)でレギュラーとなり、首位打者を獲得した。

 昭和48年夏に初の8強入りした後に低迷したが、15年ぶりの甲子園出場を果たしたのが同63年の夏。3番・中堅の2年生が浅井樹だった。広島入りして勝負強い打撃で活躍。左の代打の切り札となった。通算代打安打154本は歴代2位、同打率・315は歴代3位を誇る。現在は広島の打撃コーチ。

 平成14年夏出場のエース・中沢雅人は中大−トヨタ自動車を経てヤクルトにドラフト1位入団。1年目に7勝した。

 田畑一也は高岡第一の出身。故障で北陸銀行を退部して家業(工務店)を手伝っていたが、ダイエー(ソフトバンク)にテスト入団。ヤクルトに移籍して開花した。平成8年に先発で12勝、翌年15勝。「野村再生工場の傑作」と称された。現在は巨人の2軍コーチ。

 富山県勢で春夏の甲子園出場を経験したチームは14校。延べ67回の出場があるが、私学勢はわずか2校(高岡第一、不二越工)で出場は延べ3回のみ。全国では珍しく、公立勢が圧倒する時代が続いている。=次回は静岡高&静岡商

 

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