かつての“剛腕”投手は商社営業部長!

★元ヤクルト、商社「サンプロダクツ」(東京都千代田区)営業部長・井原慎一朗さん(60)

2012.02.01


元ヤクルト井原慎一朗さん【拡大】

 1978年、ヤクルトの日本シリーズ初優勝を、その剛腕で支えた井原さん。150キロを超える速球で先発、リリーフとして活躍し、当時は球界屈指の速球投手として知られた。現在は都内の商社に勤務し、人望の厚さで定評のある営業部長として活躍中だ。(聞き手・米沢秀明)

 ■サラリーマン生活

 引退して27年。運良くこの会社一筋で、今年還暦になりました。プロ生活は15年でしたから、サラリーマン生活の方がずいぶん長くなりましたね。まだまだ仕事は頑張っていきますよ。

 引退の際は、肩が痛くて思うように投げることができなくなっていたので、ほっとしたのを覚えています。教師が夢でしたから、故郷に帰ろうかとも思ったのですが、妻子もいたし、マンションも買ったばかりでした。東京で次の仕事をと思っているときに、知人に紹介してもらったのが今の会社でした。

 鉄鋼商社として自動車部品や精密機械の発注、納品が仕事です。入社当時からのお得意様企業と長いお付き合いをさせていただいて、現在に至っています。大手商社とは違いますから、細かい仕事を積み重ねることが大事。やはり、もっとも重要なのは信頼関係です。

 もともと現役時代から読書が趣味で、デスクワークや計算なども平気でした。営業ですから酒を飲むのが仕事みたいなところもあり、それも大好き。調布からの通勤時間1時間も読書の時間になるし、性に合っていたのか、ここまでサラリーマンを続けることができましたね。

 ■厳格なヤクルト時代

 とにかく当時のヤクルト(広岡達朗監督)は規則が厳しくて、禁酒禁煙。食事は玄米パンと豆乳、門限午後10時の時代です。投手にもベースランニングや守備練習が相当量課されていました。見つからないように飲みにいくのが大変で、今とは大違いです(笑)。

 飲みにいくのも、命がけみたいなものです。優勝した年のシーズン途中、鈴木康二朗さん(62)=元ヤクルト投手=と「明日の天気予報は雨だから、今晩は飲みに行くチャンスだ」と門限破りを決行しました。めったにないチャンスなので、ヘベレケになるまで飲みました。

 ところが天気予報が外れて翌日はカンカン照り。しかも、相手マウンドには江夏(豊=当時広島)が登場。こっちは完全に二日酔いで地面が揺れるまま投げました。

 でも、優勝するときは何でもうまくいくものですね。伊勢(孝夫=現ヤクルトコーチ)さんが、サヨナラ安打を打ってくれたので、なぜか勝ち投手になっちゃった。実はほかにも何度か“酒気帯び”でマウンドに上がったことがあります。不思議なもので負けたことは1度もありません。

 ただ、現役時代の規則の厳しさは、引退後も体に染みつきましたね。たまに神宮球場へ野球観戦に行くことがありましたが、スタンドでもビールを飲む気になりませんでした。何となくベンチから見られているような気がするのです。

 ■飲もうズ

 酔っていても勝つときは勝つし、勝負は何事も紙一重ですね。丸亀商3年の北四国大会での松山商戦を思い出します。私は9回無死まで完全試合を続けながら敗戦し、甲子園出場を逃しました。松山商は甲子園で、三沢高の太田幸司投手(現野球解説者)と引き分け再試合の死闘を繰り広げることになりました。もし、あのとき甲子園に出場したのが自分だったらどうなっただろう、と考えることもありました。

 プロ入りのときも、中日からの誘いを断って慶大進学を決めていたのに、ヤクルトから思いがけず指名を受けました。裕福な家庭ではなかったこともあり、もう一度検討し直して入団したという経緯もありました。

 今は野球といえば、少年野球の指導と、もっぱら地元の東京・調布市でソフトボールをプレーするくらいになりました。チーム名は「Let,s nomos」といいます。プレー後の一杯が楽しみです。というか、もう飲みながらプレーしていますけどね。

 ■いはら・しんいちろう 1952年1月2日、愛媛県川之江市(現四国中央市)出身。丸亀商業高の3年春にセンバツ出場。70年ドラフトでヤクルトに入団し、先発、中継ぎ、抑え投手として活躍。優勝した78年は10勝4敗4S、日本シリーズでは抑え投手を務めた。中日・小松辰雄の速球を売り物にするため設置したナゴヤ球場のスピードガンで153キロを記録し、球場が計測を停止した逸話も。現役通算314試合登板、42勝45敗15S。完投8、完封3。球宴出場2回。84年に引退後は「サンプロダクツ株式会社」(東京・千代田区飯田橋)勤務。ヤクルトOB会副会長。

 

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