756号を打たれた男が王さんに感謝!今は海辺で静かに暮らす

★元ヤクルト投手 鈴木康二朗さん

2012.02.15


誰もが避けたマウンドで真っ向勝負。それでも後悔はない【拡大】

 1977年、巨人の王貞治(現ソフトバンク球団会長)が放った世界新記録(当時)の756号本塁打を被弾したのがこの人だった。誰もが勝負を避けていた場面であえて勝負を挑んだ度胸は、結果的に球史に残る記録につながった。引退後は出身地・北茨城の廃棄物処理会社に勤務していたが、2年前に定年。現在は被災地の復興を願いながら、静かに毎日を送っている。(聞き手・米沢秀明)

 ■体を患って

 60歳で定年となった直後に体調を崩し、半月ほど入院しました。肝機能障害ということで、立っているのも大変な感じでした。何しろ病院が嫌いなものですから我慢していたのですが、近所に住む兄に見つかり、入院となってしまいました。

 地元の廃棄物処理会社には平成7年からお世話になり、定年まで小名浜(福島県)の工場にいました。現場はほこりっぽいし塩酸、硫酸なども扱っている場所ですから、体にはよくないでしょう。酒も好きで毎日飲んでいました。

 退院後はだいぶよくなりました。医師も正月は飲んでいいというので、ゆっくりできました。ちょっと体調が良くなってくると飲んでしまうので、気をつけないと。王さんが体調を崩したというニュースを聞いたときもドキッとしましたね。でも今は元気そうなのでホッとしましたよ。

 独り暮らしです。散歩が好きで、震災前までは大津港の波止場にいる釣り人を見ながら散歩するのが日課でした。ところが、港は大被害を受け波止場もなくなってしまった。震災の日、偶然散歩をしなかったので助かりましたが、もしあのとき港にいたら大変なことになっていたと思います。

 この辺は静かな港町です。生家のあった裏には石井竜也(米米CLUB)さんの実家もあります。子供のころは、野球の練習で腹が減ってくると、漁師が庭で干しているサバの干物を失敬していましたね。

 ■あの一球

 35年前のあのとき。打たれたら不名誉な記録となりますから、ほとんどの投手は勝負を避けていました。フルカウント。でも、ぼくは四球が一番嫌いです。王さんは沈むボールが好きではなかったので、「打てるものなら打ってみろ」という気持ちで、決め球のシンカーを投げました。

 ちょっと高かった。高めのシンカーは棒球です。痛烈な打球は低かったのでフェンスに当たるかと思ったのですが、打球はそのまま右翼席へ飛び込みました。

 直後の感想は「ああ、打たれちゃった。(不名誉記録は)俺か」でしたね。

 その日の夜は、悔しくて1人で飲みました。でも、次の日には「悔やんでも仕方ない」と気持ちを入れ替えることができましたね。その日に打たれなかったとしても、みんな逃げているわけだから、また自分が打たれる巡り合わせになるかもしれないし、とも。

 歴史的な本塁打を許した投手には、サイパン旅行が贈呈されることになっていましたが辞退しました。旅行ほしさに打たせたと思われては腹が立ちますから。副賞は打たれたあとに「実は懸賞がかかってまして…」という風にもってきてくれないと(笑)。

 でも打たれてよかった。これをきっかけに、燃えることができて成績は上がったわけですから。この年14勝、翌年13勝でチームは優勝。これで自分の成績が悪くなったら、王さんにも悪い気がしましたから。

 ぼくはマウンドに上がると強気になれるのですが、マウンドを降りるととても気が弱いんです。プロ入りのときも、周囲には気が弱すぎて無理だといわれていました。それがプロで14年もできたのは、「さあ、打ってみろ」とシンカーをストライクゾーンに投げ続けてきたからでした。

 だから、それで打たれたならいいじゃないかと。王さんには「ありがとうございました」という気持ちです。打たれたおかげで成績を上げることができたわけですから。その後、王さんと話をする機会はありませんでしたが、もし会えたらそう伝えたいですね。

 ■すずき・やすじろう 1949年4月18日、茨城県北茨城市出身。磯原高から日鉱日立を経て、72年ドラフト5位でヤクルト入団。シンカーを武器に、長身のスリークオーター右腕として活躍した。75年に1軍デビューし76年に先発ローテーション入り。王の世界新記録756号は77年9月3日の後楽園球場。78年には13勝3敗を挙げ、最高勝率投手でヤクルト初の日本一の原動力に。83年近鉄に移籍してからは抑えで活躍し84、85年には最多セーブを記録した。86年引退。現役通算81勝54敗52S。引退後は都内の安全機器会社に3年間、北茨城のアパレル関係会社に5年間勤務。95年から勤めた廃棄物処理会社「日進工業」(北茨城市)を2010年に退職した。

 

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