甲子園で時代創った広島商…達川ら輩出

2012.03.11


佃正樹【拡大】

 「怪物・江川を止めた男」はいま、この世にはいない。昭和48年の甲子園で春に準優勝、夏は優勝。広島商の左腕エースだった・佃正樹は平成19年8月、52歳の若さで食道がんで亡くなった。

 その48年春。ファンの興味は、どのチームが作新学院の江川卓を攻略するか−だけだった。前年秋の栃木県大会−関東地区大会−そして甲子園の準々決勝までの公式戦計10試合。江川から点を取ったチームはなかった。

 迎えた準決勝。広島商は1点を追う5回裏、1死から四球で出た捕手・達川光男をヒットエンドランで二塁に進める。ここで佃は外角高めの速球に詰まったが、打球は右前に落ちた。同点。江川の公式戦連続無失点記録が、140イニング目で途切れた瞬間だった。

 8回には1番・金光興二主将の四球と、4番・楠原基の内野安打でつかんだ2死一、二塁で重盗。相手失策を誘って決勝点を奪った。

 「江川を打てなくても作新を倒す」。わずか2安打、11三振を喫しながら2−1の勝利。バントやエンドラン、機動力を駆使してゆさぶりをかけ接戦をモノにする。

 この年の広島商は“江川戦”だけでなく、シーズンを通して「広商野球」の真骨頂を見せた。春は続く決勝(対横浜高)で敗れたが、夏は決勝(対静岡高)でサヨナラスクイズを決めた。

 細見で美少年、女性ファンの人気が沸騰した佃は、金光や楠原とともに法大進学。江川とチームメートになるが、1勝もできずに終わる。

 「江川はやっぱり怪物。とても勝負にならない。高校でヒットを打ったなんて信じられなかった。大学に入ってプロはすぐにあきらめました」

 三菱重工広島で野球は続けたが、すぐに引退。社業に専念した。そのかたわらで少年野球の指導も行っていた中での、食道がん発症だった。

 佃と一緒に法大入りした金光は、近鉄のドラフト1位指名を蹴りアマ一筋に歩んだ。佃と同じ三菱重工広島へ。広島商監督で甲子園出場を2回果たした。現在は法大監督の座にある。

 佃とバッテリーを組んだ達川は、東洋大から広島入り。“ささやき戦術”や明るいキャラクターで人気者となり、監督も2年務めた。

 このチームで、2年生の正二塁手を務めたのは川本幸生。当時から将来の指導者として位置づけられ、昭和60年に広島商の監督に。同63年夏、16犠打の大会記録を作って全国制覇を飾った。解説者としてもお馴染みになったが、監督復帰後に体調をくずして退任。平成22年5月、大腸がんで亡くなった。53歳。「広商野球の継承者」も佃と同じく早世してしまった。

 「広商人脈」がアマ球界だけではなく、プロ球界もけん引した時代があった。

 明治32年創部の広島商は、大正5年の第2回全国大会に初出場。エースだった石本秀一は、26歳で監督に就任した。2振りの真剣の上を素足で歩かせる精神鍛錬法、「真剣刃渡り」などのスパルタ指導で、4回の全国優勝。「広商野球」の礎を築く。プロ野球の監督としても、阪神では“ダイナマイト打線”を編成し優勝2回。広島の初代監督など6球団で指揮を執り、プロ・アマを通じて日本野球史を代表する指導者のひとりとなった。

 石本の“一番弟子”が鶴岡一人だ。広島商時代は昭和6年春に優勝。法大からプロ入りし、南海の名監督となった。リーグ優勝11回、日本一2回。歴代1位の通算1773勝の大記録が輝く。強大な人脈で、プロ球界全体に大きな影響力を持った。

 山本一義は、広島商が生んだ最高の打者と称される。3年生の夏の県大会では13打席で10回の敬遠攻めに遭い、やっと勝負してきた初球を本塁打した逸話が有名だ。法大から広島へ。地元出身のスターとして活躍した。広島など3球団でコーチ、ロッテの監督も務めた。

 「広商野球」は、地元プロ球団・広島の悲願の初優勝も支えた。昭和50年。山本はこの年を最後に引退するが、大下剛史と三村敏之の1、2番コンビが機動力野球を担った。ふたりは同じ町の出身で幼なじみ。4年先輩の大下(駒大出)はヘッドコーチ時代には「鬼軍曹」と恐れられた。三村は広島の監督も務めたが、楽天の編成部部長として、平成21年のドラフト会議に出席した4日後に急逝した。

 三村とともに、昭和41年夏の甲子園に出場した左腕エースが山本和行。亜大から阪神入りし、リリースエースとして通算116勝130セーブを挙げた。

 現役プロには、広島期待のスラッガー・岩本貴裕(亜大出)らがいる。

 春夏通算43回の甲子園で優勝7回(夏6、春1)。柔よく剛を制し、広島商は大きな時代を創った。だが、平成に入ってからは5回の出場で8強が最高。広島県内の主役の座を奪ったのは、大正時代からの宿敵・広陵高だった。=敬称略(次回は広島・広陵高)

 

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