ヤクルトの“赤鬼”波乱万丈の野球人生

★元ヤクルトのボブ・ホーナー(後編)

2012.05.10


ホーナーは常識を覆す軽いバットで本塁打を量産【拡大】

 ヤクルトでのデビュー戦となる1987年のこどもの日に、いきなり初アーチ。その後も本塁打を量産し、現役大リーガーの実力を日本人に知らしめた史上最強の助っ人、ボブ・ホーナー。

 年俸やCM出演などで5億円を荒稼ぎし、わずか1年で帰国した。「黒船」はファンだけでなく選手にも、大きなカルチャーショックを残していった。

 まず私を含めたチームメートが驚いたのは、そのバットの軽さだった。当時の常識では「軽いバットはボールが飛ばない」とされていた。非力でも重いバットを使い、短く持って速く振ることがよしとされていた。

 バットの重量が1キロを超える打者も多く、軽くても920−930グラムという時代。ところが大リーグで1試合4本塁打も記録したホーナーが使っていたのは、900−905グラムという超軽量タイプだったのだ。

 「軽くてもバットスイングさえ速ければ飛ぶ」−。ヤクルトナインの野球観が変わり、こぞってバットを軽くした。もちろん私もそうした。この流れは球界全体に広がり、今や主流は800グラム台。一番重い西武・中村剛也でも950グラムだ。

 打撃技術も学ぶところが多かった。柔らかく振り、バットの芯に乗せてボールをスタンドまで運ぶ。「これがメジャーなんだ…」とうなった。

 ホーナーが日本プロ野球にもたらしたもうひとつの影響は、一塁への全力疾走だ。当時のプロ野球選手は凡打だと、タラタラ走るのが一般的だった。ところが現役バリバリの大リーガーが常に全力疾走を怠らない姿勢を目の当たりにし、私たちは「すごい。やっぱり向こうでしっかり教育されているから、自然にできるんだろう。見習わなくては」と認識を改めた。

 練習はまったくといっていいほどしなかったが、実力がある上に試合中は顔を真っ赤にして全力プレー。だから監督もコーチも、ホーナーには何も言えなかった。

 ホーナー効果で神宮球場は連日の超満員。開幕前は最下位予想ばかりだったチームの記事がスポーツ紙の1面を飾り、ついにはテレビCMの出演依頼まで届いた。

 薬師丸ひろ子と共演したサントリーの缶ビールのCMで、ホーナーが手にしたギャラは5000万円。本人は「日本で全部使った」と言っていたが、いつも世話になっているチームの裏方さんにもだいぶ恩返ししたようだ。チャリティーにも熱心で、自分のグッズの収入は難病の基金に寄付。このあたりも一流大リーガーの面目躍如だった。

 シーズン終了後にヤクルトは慰留したが、本人は年俸が下がっても大リーグでのプレーを熱望し、結局カージナルスと契約した。最初は4番に座ったが、ケガにも悩まされて1年でクビに。翌年の春季キャンプでも契約してくれる球団は見つからず、30歳の若さで現役引退となった。今思えば、日本でも垣間見えた暴飲暴食や練習量の少なさが、ハッスルプレーを支えきれず選手寿命を短くしたのかもしれない。

 時は流れて93年2月。米アリゾナ州ユマで行われたヤクルトの春季キャンプに、ホーナーは臨時打撃コーチで招かれた。

 ヤクルトのユニホームを着たのはたった1年。だが若手はホーナーを“伝説の選手”として見つめ、私たちかつてのチームメートは「懐かしい」と旧交を温めた。

 「今は事業を頑張っている」とほほえむ“赤鬼”は、体重こそ増えたが、選手時代より陽気になったように感じた。

 ■Bob Horner 1957年8月6日、米カンザス州生まれ、54歳。アリゾナ州立大時代の78年、原辰徳を擁する東海大との親善試合で来日し、全試合で本塁打。同年の大リーグドラフトで全米1位指名を受け、ブレーブス入り。いきなりメジャーデビューし、23本塁打で新人王。1試合4本塁打を記録した86年オフにFA宣言。交渉が不調に終わり、87年4月にヤクルトと契約。93試合出場で31本塁打、打率・327、73打点を残した。同オフにカージナルスと契約し米球界復帰。4番を期待されたが、左肩故障で6月から戦列を離れ現役引退。右投右打。大リーグ通算1047安打、打率・277、218本塁打、685打点。

 ■杉村繁(すぎむら・しげる) 1957年7月31日、高知市生まれ。高知高時代は小柄なスラッガーとして「土佐の怪童」の異名を取り、高校3年時の1975年春の甲子園決勝では、原辰徳を擁する東海大相模高を自らの決勝打で破り優勝。同年ドラフトでヤクルトに1位指名され入団。87年限りで現役引退後は長く球団広報を務めた。00−07年はヤクルト、08−11年は横浜で打撃コーチなどを担当し青木宣親、内川聖一らを指導。水島新司氏の野球漫画「ドカベン」に登場する微笑三太郎のモデル。今年から本紙評論家を務める。

 

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