巨人・杉内は鹿児島“御三家”が生んだ最高左腕

2012.06.17


杉内俊哉【拡大】

 高校野球の世界にも「御三家」という言葉がある。鹿児島県では鹿児島実、樟南(旧鹿児島商工)、そして鹿児島商のことをそう称してきた。

 数字が物語る。鹿児島県勢が春・夏の甲子園に出場した回数は、今春までに95回。うち、御三家が74回を占める。それも、鹿児島実と鹿児島商が25回、樟南が24回ときれいに分け合う。

 甲子園での勝利数は、鹿児島実が31勝で最多。樟南が26勝で続き、鹿児島商は15勝。この差は、そのまま甲子園での“活躍度”を表す。

 平成8年春。鹿児島県勢で唯一の全国制覇を飾ったのが鹿児島実だ。このほか4強2回、8強は5回。

 樟南は平成6年夏、鹿児島県勢として初の決勝に進んだが、惜しくも準優勝。4強1回、8強は6回ある。

 鹿児島商は、昭和2年に鹿児島県勢として初めて夏の甲子園に出場した。その大会を含め、8強が4回。

 大正7年創部の鹿児島実の名前を全国区にしたのは、定岡正二の奮投だった。「細身で甘いマスクの投手」は甲子園のアイドルになる条件だが、そこに“悲運”が加わると人気は沸騰する。

 昭和49年夏だった。定岡は2試合連続で1−0の完封の後、準々決勝で東海大相模と激突。1年生の5番打者には、原辰徳(現巨人監督)がいた。延長15回、5−4の勝利。定岡は原に3安打2打点と打ちこまれたが、213球の完投で18三振を奪った。

 ナイターでの大激闘は、スタンドのファンだけでなく、テレビ桟敷のファンもくぎ付けにした。

 翌日の準決勝(対防府商)。定岡は3回の攻撃で本塁に突入した時、右手首を痛めた。そのまま降板。チームは9回に1−2でサヨナラ負け…。

 ドラフト1位で入った巨人でも活躍したが、近鉄へのトレードを拒否し、29歳で引退。タレントに転身した。

 “定岡三兄弟”はみんな、鹿児島実の出身。南海の正遊撃手を務めた兄・智秋は、ダイエーのコーチや独立リーグ・高知の監督に。弟・徹久(専大)は広島と日本ハムでプレーした。

 鹿児島実が生んだ最高の左腕が、杉内俊哉だ。平成10年夏の甲子園(対八戸工大一)でノーヒットノーランを達成。ソフトバンクから巨人に移った今季も、5月10日の楽天戦でノーヒッターになった。甲子園大会とプロの両方で達成した投手は、史上初。

 杉内の4歳下で、少年野球チームからの後輩にはソフトバンクの俊足、好打の内野手・本多雄一がいる。

 甲子園で人気者になった樟南バッテリーは、右腕・福岡真一郎とメガネの捕手・田村恵。1年秋からコンビを組み、2年春から3回、甲子園を沸かせた。3年生の平成6年夏は決勝で佐賀商に敗れたが、史上に残るバッテリーとして名前を刻んだ。

 甲子園で8勝を挙げた福岡は、九産大からプリンスホテルへ。平成12年、同部の廃部とともに引退している。

 田村は広島入りしたが、通算62試合出場で引退。現在は九州担当のスカウトとして、後輩球児を見つめている。

 今季から日本ハムの選手会長を務める捕手・鶴岡慎也は、平成10年春と11年夏の出場。同期のエースが広島の上野弘文、1年下にロッテの内野手・青野毅がいた。阪神の大和(前田大和)は平成17、18年に出場したときの1番・遊撃手だった。

 県内きっての古豪。明治31年創部の鹿児島商は、公立の商業高校で全国唯一の男子校としても知られる。

 プロ野球黎明(れいめい)期の強打者で、名古屋(現中日)と阪急で活躍した古川清蔵は、本塁打王を2回獲得。引退後は競馬評論家となり、サンケイスポーツでも活躍した。

 最近の選手では、昭和63年夏に出場した井上一樹。中日で強打の外野手となり、現在は1軍打撃コーチを務めている。

 このほか、鹿児島高(私立、甲子園出場2回)はV9巨人の正遊撃手・黒江透修。出水高は、かつての広島の大エースで完全試合1回、ノーヒットノーラン2回の外木場義郎を輩出した。大リーグ・マリナーズの川崎宗則は、鹿児島工(甲子園出場2回)の出身。

 平成17年春に甲子園初出場で準優勝した神村学園は、昨年夏と今春も連続出場。5月の九州大会も制した。鹿児島実・久保克之と樟南・枦山智博という、両校を強豪に育てた2人の名将は勇退。鹿児島県の勢力地図が変わり始めた。=敬称略(次回は沖縄県)

 

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