亡き父の“思い”を胸に野球指導者に!

★元ヤクルト、西武、早稲田大学人間科学部情報科の内田和也さん(28)

2012.06.27


真剣な表情で授業をする内田さん。新たな夢はかなおうとしている【拡大】

 甲子園常連の強豪日大三高(東京・町田市)で今月、28歳の卒業生が教育実習を終えた。2001年夏、「走攻守」3拍子そろった野手として同校を全国優勝に導いてから11年。母校での3週間には大きな試練が待っていたが、教員資格取得、野球指導者という大きな夢に向け、確実な一歩を踏み出した。(聞き手・米沢秀明)

 希望に満ちあふれ再び母校の門をくぐった内田さんに、神奈川県の実家から連絡が入ったのは、教育実習が始まって4日目の午後だった。

 「お父さんの容体が急変した」と電話口の母。急いで父、正美さんが入院していた横須賀市の病院に駆けつけたが、すでに意識はなく、5月29日の朝に他界した。64歳だった。

 正美さんが最初に肺がんと診断されたのは、内田さんが中学生のとき。ヤクルトから西武に移籍したころには転移がみつかり抗がん剤治療を続けていた。福岡県出身の正美さんも、東洋大から電電東京(現NTT東日本)へ進み社会人で12年間プレーした野球人だった。

 「僕が野球を始めたのも父の影響です。物ごころついたときには、庭でティー打撃の練習ができるようになっていました。覚悟はできていましたが、まさか教育実習期間中とは…」

 プロ野球の分厚い壁を思い知らされ、引退直後に早大人間科学部に入学したのは08年。在宅授業と少年野球の指導を両立し、5年間かけて教育実習にまでたどり着いたが、教室を離れざるをえなくなった。

 翌30日は教育実習を休み、31日の通夜の準備に追われているときだった。

 「母が『こっちのことはいいから、教育実習をやってこい』っていうんです。一瞬迷いました。でも、父も『俺が死んだくらいで休むんじゃない』と言うだろうと思い、学校に行くことにしました」

 通夜の日の午前中、初めて教壇に立ち、後輩たちに向かって情報科の授業を行った。慣れない授業の緊張は、慌ただしさと生徒たちの笑顔で薄まり無事終了。すぐに実家に戻って通夜に出た。

 「日大三高がいいんじゃないかと言ってくれたのは父でした。プロで活躍して、(父に)大きな顔をさせてやりたいと思いましたが、それはできなかった。でも、こうやって第二の人生を踏み出すことができるのも、甲子園に出ることができたのも、プロを体験できたのも、ここに入学できたから。感謝しています。医師に駄目だといわれているのに、父は3月まで仕事に行って一言も弱音をはかなかった。男の生き方をみせてもらいました」

 普段病気をしたことのない内田さんだが、さすがに疲れたのか、直後に高熱を出し、もう1日教育実習を休んだ。

 「恥ずかしいのですが体調を崩してしまいまして…。しかし、日程がどんどん遅れてしまうので、点滴を打ちながら授業をしました」

 情報科はコンピューターなどの指導が多い。具体的な実務を教えることが多く、夜も翌日の授業の準備に追われた。

 「教師としては実力が足りないので、もう一段レベルアップしなければならないことを実感させられました。ただ、生徒たちはとても純粋だということが、改めて分かったのはうれしかった」

 内田さんは、これから卒論「野球指導におけるeラーニング教材の開発と効果測定」を書き、野球部の監督になるという夢を実現できる採用先を探す。もちろん母校に採用してもらえるのが最高だ。

 「ここまで長かったですが、まだ教育実習が終わったばかりです。今は自分の力を試してみたいという気持ちです。本当に大変なのはここからでしょう」

 1つ試練を乗り越えた内田さんは、晴れ晴れとした表情だった。(随時掲載)

恩師も応援

日大三・堀内正校長 「私は当時、野球部長でしたが彼の真面目さは今も変わらない。不幸があったのに学校に来た熱意は職員室でも話題になった」

野球部・小倉全由監督 「私に影響を受けたと言ってくれているようだが、恐れ多い。プロの夢が破れ、それでも前進する彼の姿に勉強させてもらっているのは私の方だ」

内田和也(うちだ・かずや) 1984年1月31日、神奈川県横浜市出身、28歳。日大三高3年で春夏の甲子園に連続出場し、夏は優勝。2001年ドラフト4位でヤクルト入団。06年、西武に移籍し07年引退。1軍成績なし。08年に早大人間科学部情報科に入学。10年から世田谷サムライボーイズ(世田谷区喜多見)で、少年野球の指導にもあたっている。

 

注目情報(PR)