1998年球宴、謎に包まれた投手続投劇

2012.07.12


突如乱れた趙成●(=王へんに民)(左)のもとに向かった権藤監督(右)【拡大】

 来週末から行われる、「マツダオールスターゲーム2012」の全メンバーが出そろった。数々の名場面に彩られてきた、夢の球宴の季節がいよいよ到来だ。

 私は選手としての出場経験はないが、ヤクルト時代の野村克也監督の広報担当として同行し、何度か独特の雰囲気に触れさせてもらった。

 プロ野球のベンチの雰囲気には、3種類あると思っている。

 通常のペナントレースと、日本シリーズは全く別物だ。日本シリーズにあえて似た雰囲気を挙げるとすれば、開幕戦の空気をさらに研ぎ澄ましたものというべきか。プレーボールがかかる前から、緊張感とうれしさに満ちている。

 球宴のベンチは、野村監督が「こんなメンバーでやったら負けへんやろな。やってみたいな」と話すほど、そうそうたる顔ぶれがそろう。だが、ピリピリ感はなくのんびりしたものだ。若手は隅っこに座り、ベテランは真ん中で足を組んで「勝ったら1人、ウン万円だから分けような」、「MVPはウン百万」などと駄弁っている。

 最近は選手会の行事や代表戦を通して、球団間の交流が以前より盛んだ。和気あいあいとした雰囲気の中で、投手も思う存分、自分のベストピッチを披露している。

 昔はいささか風景が違った。仲間同士なのは球宴だけ。後半戦に向け、やすやすと手の内は見せられない。たとえば巨人の捕手がいろんな球種を要求しても、ヤクルトの投手は投げたがらなかった。昔の球宴が直球勝負ばかりだったのは、こうした背景もあった。

 そんな同じベンチの裏で、駆け引きがあったのではないかと物議を醸したことがある。1998年7月23日、千葉マリン(現QVCマリン)で行われたオールスター第2戦だ。

 8回からセ・リーグの5番手で登板した巨人・趙成●(=王へんに民)(チョ・ソンミン)が、最終回の1死後に急激に制球を乱した。セ・リーグ監督の野村監督は「おかしいぞ」と何らかのアクシデントを疑い、同コーチの横浜(現DeNA)・権藤博監督を確認のためマウンドに送った。

 結局2人でトレーナー室に引っ込み、しばらくして出てきた趙は、私たちの目の前で猛然と腕立て伏せを行い、グラウンドに戻っていった。

 その場で「韓国の大学野球部はめちゃくちゃ厳しくて、あいつは冬場も氷水の中で鍛えていたらしい」という逸話を聞き、「さすが根性があるわけだな」と納得した。

 ベンチの誰もが「あれだけ元気なら大丈夫」と送り出したのだが…。その後の投球は痛々しいほど。2死満塁からなんとか無失点でしのいだが、球宴後に右ひじの故障が発覚し、実質的に選手生命を絶たれた。

 ライバル関係にあった巨人の投手を“つぶした”として、野村監督にも疑念の目が向けられた。だが、その場にいた私は事実でないと断言できる。

 球団に事情を聴かれた趙は「『ひじが痛い。無理です』と訴えたが、権藤さんに『いけるだろ』と言われた」と説明したという。もし趙が降板したら、前日に投げた横浜・佐々木主浩が急きょ肩をつくり、登板するしかない状況だった。権藤体制1年目の横浜は当時セ首位を走り、佐々木は絶対的な抑え。トレーナー室でどんなやりとりがあったかは定かでないが、その年は横浜がペナントレースを制し、日本一に輝いた。

 巨人の広報として当時、同じベンチにいた香坂英典(現巨人編成部)との間では、今でも「謎だよな…」と語りぐさになっている。

 ■杉村繁(すぎむら・しげる) 1957年7月31日、高知市生まれ。高知高時代は小柄なスラッガーとして「土佐の怪童」の異名を取り、高校3年時の1975年春の甲子園決勝では、原辰徳を擁する東海大相模高を自らの決勝打で破り優勝。同年ドラフトでヤクルトに1位指名され入団。87年限りで現役引退後は長く球団広報を務めた。00−07年はヤクルト、08−11年は横浜で打撃コーチなどを担当し青木宣親、内川聖一らを指導。水島新司氏の野球漫画「ドカベン」に登場する微笑三太郎のモデル。今年から本紙評論家を務める。

 

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