興南・我喜屋優編(2) 北の地・北海道でも反骨の炎を燃やし

2014.04.06


我喜屋監督【拡大】

 沖縄県勢が甲子園大会で初めて旋風を巻き起こしたのは、1968(昭和43)年の夏のことだった。県勢初の4強に進出した興南のメンバー14人の中に、主将で4番、背番号8の我喜屋優の名前がある。

 それまでの沖縄勢は春夏通算で8度出場していたが、わずか1勝。いかに興南の進撃が快挙だったかわかる。のちに沖縄の高校野球を全国区に引き上げる名将・栽弘義が豊見城を率いて4度の8強入りを果たすのは、これよりずっと後の昭和50年代になってからだ。

 興南の快挙は沖縄県民を狂喜乱舞させた。試合中継が始まると那覇市のメーンストリート、国際通りから人がいなくなったほどだった、と伝えられている。

 この4強入りで我喜屋は「下手は下手なりに一生懸命やればできる」という思いを抱き、その後の野球人生の支えにする。社会人野球時代の苦難も、この思いで乗り越えていく。

 興南卒業後、我喜屋は勧誘を受けた明大進学を希望したが、実家の経済的な問題で断念。仕方なく社会人野球の強豪・大昭和製紙(静岡県富士市)に進んだ。チームは入社2年目に都市対抗で優勝を飾るが、ベンチ入りメンバーには入れなかった。

 そして4年目のシーズンが終わると、大昭和製紙北海道(白老町)への移籍指令を受ける。「事実上の戦力外通告だった」という。

 日本列島の南端の沖縄県に生まれ、温暖な静岡を経て、北端の北海道へ…。社会人野球の仲間からは「雪に覆われた火山灰地に行くのか」と同情された。

 1973(同48)年1月10日。飛行機で千歳空港に降り立った日のことを、我喜屋は忘れない。気温もはっきりと憶えている。マイナス13度。氷のように硬い雪が積もっていた。「北海道の人には悪いけど、正直、ここは野球をするところじゃない、と思った」。それでも、流れ流され、もうここより後ろはない。野球をする場所は、ここしかなかった。

 北の地で、我喜屋は反骨の炎を燃やしはじめた。同じように静岡から移籍した数人の仲間と、元々いた部員で編制したチームはハンディを力に変えた。「逆境を嫌わず、染まってしまえばいい」。1年の半分は覆われる雪が邪魔なら、どけて練習。「何もできないと思ったら、そこで終わり。強くはなれない」

 北海道に来て2年目の1974(同49)年のこと。チームは都市対抗で優勝を飾り、黒獅子旗を初めて北海道に持ち帰る。我喜屋は主砲として大活躍。意地の全国制覇だった。

 我喜屋は「野球をするところじゃない」と思った北海道に、結局、34年間も居続けることになる。 (敬称略)

 ■我喜屋優(がきや・まさる) 1950年6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれ。沖縄の本土復帰前の68年、夏の甲子園大会に興南高野球部の4番・主将として出場し、沖縄県勢初のベスト4に。卒業後、大昭和製紙富士−大昭和製紙北海道へ。74年に都市対抗で北海道勢初の優勝に貢献。引退後は大昭和製紙北海道の野球部監督も歴任。2007年に興南高監督に就任し同年夏、24年ぶりに甲子園出場。その後09年の春の大会から、春夏ともに2年連続出場し、10年に春夏連覇。就任3年間で4度甲子園出場し、全国制覇1度。監督として甲子園通算12勝3敗。

 

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