興南監督・我喜屋優編(3) 北海道で34年、社会人野球に尽力低迷する母校の要請で39年ぶり帰郷

★興南・我喜屋優編(3)

2014.04.13


我喜屋優監督【拡大】

 社会人野球の強豪・大昭和製紙(静岡県富士市)から「事実上の戦力外通告」を受けて、我喜屋優は同じ大昭和製紙の北海道(白老町)に移籍。その2年目の1974(昭和49)年に主力選手として意地の都市対抗制覇を果たした。

 「野球をするところではない」と思っていた北の地は、すっかり我喜屋のホームグラウンドとなった。そして、価値観まで変えた。

 「人間も生物も、半年間、雪の下でじっと耐えたやつが生命力が強いんだ」

 北海道での現役生活は16年にも及んだ。「北海道の我喜屋優」の名は社会人球界で知れ渡り、欠くことのできない存在となった。

 コーチ、助監督を経て1989(平成元)年に監督に就任。4年連続でチームを都市対抗に導き、準優勝も果たした。

 そんな我喜屋の野球人生に再び波が立った。大昭和製紙北海道野球部の休部だ。

 大企業が不況に苦しむ時代に入り、会社のPR戦略に一役買ってきたスポーツ部も存続の危機に立つ。野球部は1993(同5)年のシーズン限りで活動を休止する。

 「あきらめと怒りが混じっていた」

 我喜屋は当時の心境をこう吐露した。

 監督である我喜屋は、北海道社会人球界の名門がクラブチームとして存続することに尽力。翌1994(同6)年から「ヴィガしらおい」として再出発するまでに漕ぎつけ、引き続き監督を務めた。大昭和製紙の社員としても全うし、定年後も北海道を離れる気はさらさらなかった。北海道で結婚し、子供も育っていた。すっかり北海道の人間になっていた。

 故郷・沖縄の母校、興南からの監督就任要請があったのは、そんな時期だった。

 興南野球部は1983(昭和58)年の夏を最後に甲子園から遠ざかっており、長い低迷期にあった。甲子園で最初に旋風を起こし、沖縄高校野球のリーダーだったはずの興南は、その立場を沖縄水産に、さらに沖縄尚学に譲って久しかった。

 そんな母校の要請に悩む我喜屋に、北海道生まれの妻が背中を押した。

 「家族をほったらかして野球ばかりやってきたのに、今のお父さんは会社の接待役ばかりで男芸者にしか見えない。沖縄で野球をやったらどうですか」

 野球をする場所を求めて沖縄−静岡−北海道と渡った我喜屋が、再び沖縄へ。北海道には結局、34年間もいた。2007(平成19)年4月、興南の監督に就任。実に39年ぶりの帰郷だった。 (敬称略)

 ■我喜屋優(がきや・まさる) 1950年6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれ。沖縄の本土復帰前の68年、夏の甲子園大会に興南高野球部の4番・主将として出場し、沖縄県勢初のベスト4に。卒業後、大昭和製紙富士−大昭和製紙北海道へ。74年に都市対抗で北海道勢初の優勝に貢献。引退後は大昭和製紙北海道の野球部監督も歴任。2007年に興南高監督に就任し同年夏、24年ぶりに甲子園出場。その後09年の春の大会から、春夏ともに2年連続出場し、10年に春夏連覇。就任3年間で4度甲子園出場し、全国制覇1度。監督として甲子園通算12勝3敗。

 

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