興南監督・我喜屋優編(7) 厳しい社会人野球で揉まれた北海道での歳月

★興南・我喜屋優編(7)

2014.05.11


我喜屋優監督【拡大】

 高校野球の監督になってわずか4年目の2010(平成22)年。我喜屋優は沖縄県勢3度目のセンバツ大会優勝を飾り、夏の選手権は県勢初の制覇で史上6校目の甲子園春夏連覇の偉業を達成した。

 その夏の全国制覇の直後のテレビインタビュー。我喜屋の話は、おおむねこんな内容だった。

 「選手たちは凄いことをやってくれました。最後の最後まで自分たちの野球に徹してくれた。甲子園では選手が日ごとに成長したと思う。春の優勝が幻ではないことを確信しました。夏の初優勝は、沖縄にとって本当に意義があります」

 そのテレビインタビューを聞いていた北海道の友人から、宿舎に帰るバスの中で携帯電話にメールが入った。「北海道の人間と、全国の高校野球ファンに対する感謝の言葉が、インタビューの中にはなかった…」という内容だった。

 確かに「北海道」というキーワードは我喜屋にとって欠かせないものだった。沖縄で生まれ、興南で野球を始めて甲子園大会で4強入り。静岡にある社会人野球の大昭和製紙に入ったが、すぐに系列の大昭和製紙北海道(白老町)に移籍を命じられた。最初は「こんなところは野球をするところじゃない」と思った北海道で、結局、34年間も過ごした。1年の半分は雪に埋もれる北の地で、選手、監督として厳しい社会人野球で揉まれた歳月があったからこそ、高校野球の指導者として偉業を達成できたのだ。

 お前は北海道時代のことを忘れたのか…。友人からのそのメールには、そんな思いがこもっていた。気がついて「ハッとした」という我喜屋は、宿舎に帰ってからの報道陣の再度の取材の席で、北海道への感謝の言葉を切々と並べた。「言葉の大切さを身にしみて感じた」メールだった。

 旧知の人間の指摘で我に返り、すぐにフォローできる柔軟性が我喜屋にはある。それは、選手への気配りにも繋がっている。

 我喜屋はこれまで5度、監督として甲子園に出場。15試合で指揮を執ったが、ピンチでマウンドにベンチから伝令を送ったのは、2度しかない。これは高校野球の監督としては極めて少ない数字だ。

 その1度は、春夏連覇への道程で最大の苦闘だった、夏の準決勝の報徳学園戦で5点を先取された時。これは試合の展開上では仕方がないことだが、あとの1度は、補欠で試合には出られない選手を、テレビ画面に映すためだった。

 「試合に出られない選手は、陰でチームの力になってくれた。その支えを抜きにして連覇はなかった」

 野球人生の半分以上を、厳しい社会人野球界で過ごした我喜屋は、勝負に徹する指揮官だが、人間の機微を心得た男でもある。 (敬称略)

 ■我喜屋優(がきや・まさる) 1950年6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれ。沖縄の本土復帰前の68年、夏の甲子園大会に興南高野球部の4番・主将として出場し、沖縄県勢初のベスト4に。卒業後、大昭和製紙富士−大昭和製紙北海道へ。74年に都市対抗で北海道勢初の優勝に貢献。引退後は大昭和製紙北海道の野球部監督も歴任。2007年に興南高監督に就任し同年夏、24年ぶりに甲子園出場。その後09年の春の大会から、春夏ともに2年連続出場し、10年に春夏連覇。5度甲子園出場し、通算12勝3敗。

 

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