興南監督・我喜屋優編(8) 逆境に耐え抜いてきた人間教育に高評価 “三足のわらじ”履く多忙な日々

★興南・我喜屋優編(8)

2014.05.18


我喜屋優監督【拡大】

 今春のセンバツ大会。我喜屋優はわずかの期間、甲子園球場に解説者として姿を見せた。学校が春休みの期間でなければ自由が利かない体になった。63歳の今は監督という立場だけでなく“三足のわらじ”を履く、多忙な日々を送っている。

 春夏連覇を達成した2010(平成22)年。センバツ優勝後の7月1日に興南中学・高校を運営する学校法人・興南学園の理事長に就任した。その後に夏の全国制覇を飾った。話題になることはなかったが、理事長兼監督が甲子園で優勝した初めての例だったかもしれない。翌2011(同23)年からは同中学・高校の校長にも就いた。

 私立校で長く高校野球の指導者を務めて実績を残した監督が、その学校の経営に携わる立場に就いたり、校長などを務める例はある。我喜屋もその一人となったが、母校の監督になってわずか4年目の就任。いかに、野球人として逆境に耐え抜いてきた経験に裏付けされた人間教育が評価されたかの証明でもある。

 我喜屋は今、「教育者」としても責任のある立場にいる。野球部員に公園のゴミ拾いを命じた際、納得できない部員が聞いてきた。「なぜ、大人が汚したものを自分たちがきれいにしなければいけないんですか?」。もっともな疑問だが、我喜屋は首を振った。

 「見て見ぬふりをしたら嫌な思いをするのはお前たちだ。それは野球も同じ。ミスに対する小さなフォローができず、それが大きな失敗となって試合に負けてしまうよ」

 完全な「教育者」となった我喜屋だが、高校野球の監督としても衰えはない。今でもノックを打つ。「ノックが打てなくなったら、監督は辞める」。この思いは、高校野球の歴代の名将たちも口にしてきた。蔦文也(池田)も尾藤公(箕島)もそうだった。

 日本列島の北と南で、野球をする上で、その土地特有の逆境に耐えて結果を出した監督は、我喜屋だけだろう。社会人野球(大昭和製紙北海道)の監督時代は1年の半分も積もる雪を払いのけて、長い雨期のある沖縄では選手に合羽を着させ、長靴を履かせてノックをしてきた。

 我喜屋は、沖縄がまだ野球不毛の時代に野球を始めて甲子園に出場した。社会人野球の大昭和製紙(静岡)に進んだが、解雇同然で大昭和製紙北海道に移籍。反骨心に燃えて都市対抗で優勝したが、不況でチームは休部という憂き目にも遭った。そして沖縄に帰って母校の監督になって凱歌をあげた今、講演や野球部員とのミーティングでこんな話をしている。

 「逆境は宝だ。逆境の中に将来の宝物がいっぱい落ちている。野球は9回までだが人生は続く。人生のスコアボードで勝たなければいけない」 (敬称略)=この項おわり

 ■我喜屋優(がきや・まさる) 1950年6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれ。沖縄の本土復帰前の68年、夏の甲子園大会に興南高野球部の4番・主将として出場し、沖縄県勢初のベスト4に。卒業後、大昭和製紙富士−大昭和製紙北海道へ。74年に都市対抗で北海道勢初の優勝に貢献。引退後は大昭和製紙北海道の野球部監督も歴任。2007年に興南高監督に就任し同年夏、24年ぶりに甲子園出場。その後09年の春の大会から、春夏ともに2年連続出場し、10年に春夏連覇。5度甲子園出場し、通算12勝3敗。

 

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