元PL学園・中村順司編(2)マスコミ、他校監督からのやっかみも

★元PL学園・中村順司編(2)

2014.08.10


元PL学園・中村順司監督【拡大】

 中村順司(68)がPL学園の監督を務めた期間は、1980(昭和55)年秋から1998(平成10)年春までの18年間だった。

 その間、甲子園出場は16度で、通算勝利は58勝(歴代2位)。優勝6度(春3、夏3)、準優勝は2度ある。春夏連覇や春連覇の偉業も達成。20連勝、13連勝もあった。

 有力選手を全国のスカウト網にかけて入学させ、専用の寮で“付き人制度”という上下関係の厳しい中で生活させる。全国一の設備の下で1学年20人ほどの少数精鋭で鍛え上げる。当時はマスコミから「プロのようなチーム」と揶揄され、中村は他校の監督から「PLだからやれる。あのチームなら誰が監督でも勝てる」とやっかみ半分の批判も受けた。

 だが中村はそんな声にも微動だにしなかった。

 「誰にも負けない練習をしています。その上で、何事もまず神に祈ってから始める。“練習したように打たせてください”と。結果がでたら“ありがとうございます”と感謝する。素質や環境がいいから−と言われますが、そんな問題ではなく、精神力の差ではないでしょうか」

 これは桑田真澄と清原和博のKK時代の中村の言葉だ。強い自信と信念がうかがえる。決して熱血漢というタイプではなかったが、柔和な表情の裏に、福岡県の筑豊で生まれ育った男らしい意志の強さがあった。当時、自分の性格を「曲がったことは嫌い。かけひきも嫌い」と語っていた。

 中村は1946(昭和21)年8月5日、福岡県中間市に生まれた。同市は当時の筑豊炭鉱の一角にあり、日本のエネルギーを担った町の1つだった。炭鉱町には全国から気性の荒い男たちが集まり、活気にあふれていた。作家・五木寛之の代表作「青春の門」は当時の筑豊が舞台だが「あれと同じような世界だった」という。

 実家は理髪店を営み、7人兄弟の6番目。野球熱も高い土地で、ちょうど地元のプロ球団・西鉄ライオンズの黄金時代。ひいきの選手は中間市出身の仰木彬(元近鉄、オリックス監督)で、同じ中間市生まれの俳優・高倉健と2人が、中村の憧れの有名人だった。

 その2人も卒業した地元の名門・東筑高に進学して野球を続けようと思っていた中3の夏。甲子園大会をテレビで初めて見て衝撃を受ける。浪商(現大体大浪商)のエース・尾崎行雄(元東映)の剛速球に魅せられた。「野球をするなら浪商のような強いチームがいる大阪」。そんな時、PL学園のセレクションを受ける話が舞い込んだ。

 PL学園は野球で名前を売ろうと、全国にスカウト網を張り巡らせつつあった時期。小柄ながら守備のうまい内野手の中村が、その網にかかった。父親の猛反対を押し切って大阪に向かった。 (敬称略)

 ■中村順司(なかむら・じゅんじ) 1946年8月5日生まれ、福岡県出身。PL学園高を経て、名古屋商科大に進み、卒業後は社会人野球のキャタピラー三菱でプレー。76年にPL学園高のコーチとなり、80年秋に監督就任。98年センバツを最後に勇退するまで19年間に甲子園に春夏合わせて16度出場。87年の春夏連覇のほか、春は81、82年、夏は83、85年に全国制覇。監督としての通算58勝10敗は史上2位。

 

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