元PL学園・中村順司編 浪商・尾崎の剛速球に感化「野球やるなら大阪」と決意

★元PL学園・中村順司編(3)

2014.08.17


1961年大会での浪商vs法政二戦が中村の人生の岐路に【拡大】

 まだ全国にテレビがそう普及していない時代の1961(昭和36)年の夏休み。地元福岡の名門・東筑高への進学を目指して勉強していた中学3年の中村順司は、電気店のテレビの前にできた人だかりに足を止めた。

 そこで初めて見た甲子園大会の試合は、大阪の浪商(現大体大浪商)と法政二(神奈川)。3度目の対決で宿敵を破った浪商のエース・尾崎行雄(元東映)の剛速球に魅せられた中村は「野球をやるなら、浪商のような強いチームがいる大阪に」と思い立つ。

 そんな折に、PL学園からセレクション参加の誘いを受けたのは運命。理髪店を営んでいた父親は、7人兄弟の6番目の息子に「何も大阪まで行かなくても」と反対した。だが、中村は押し切って、それまで名前も知らなかったPL学園入学を決めてしまった。

 PL学園は当時、創部6年目。野球部を甲子園大会に出場させて学校の名前を売るプロジェクトが進行していた時期だった。小柄ながら俊敏な内野守備でスカウト網にかけられた中村は、胸を躍らせて入部した。1学年上の2年生部員には、後にプロ野球で活躍する中塚政之(元大洋)や戸田善紀(元阪急)がいた。

 中村が入学した1962(同37)年の春。PL学園は甲子園に初出場して、いきなり8強入り。夏も出場し、以来、最激戦区の大阪で甲子園の常連校となる。

 中村が2年生となった翌1963(同38)年の春も出場。3年生エースとなった戸田は首里(沖縄)との1回戦で21奪三振の快投を演じる。この記録はいまだに破られていない。この大会に中村は背番号14の控え内野手としてベンチ入り。その首里戦で代走として途中出場し、三塁守備にもついたが打球は飛んでこなかった。これが高校球児・中村の、たった1度の甲子園体験となった。

 プロに進むような選手にはなれなかった中村は、大学で教員資格を取得して高校野球の指導者になるという将来像を描き名古屋商科大に入学する。大学卒業時には一度、PL学園から野球部のコーチにと声がかかった。だが「社会人野球も勉強したい」とキャタピラー三菱(神奈川県相模原市)へ。遊撃手として鳴らし、都市対抗には日通浦和の補強選手として出場した。

 1976(同51)年。現役引退した後も同チームのコーチを務めていた中村に、PL学園から2度目のコーチ就任要請がきて、今度は快諾した。甲子園の常連校になっていたPL学園は、その年の夏に2度目の準優勝。全国制覇まであと一歩の時期に、中村は母校にコーチとして戻った。 (敬称略)

 ■中村順司(なかむら・じゅんじ) 1946年8月5日生まれ、福岡県出身。PL学園高を経て、名古屋商科大に進み、卒業後は社会人野球のキャタピラー三菱でプレー。76年にPL学園高のコーチとなり、80年秋に監督就任。98年センバツを最後に勇退するまで19年間に甲子園に春夏合わせて16度出場。87年の春夏連覇のほか、春は81、82年、夏は83、85年に全国制覇。監督としての通算58勝10敗は史上2位。

 

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