元PL学園・中村順司編(4) 選手との交換日誌契機に“実力優先”廃止

★元PL学園・中村順司編(4)

2014.08.24


中村順司監督(PL学園、昭和58年8月)【拡大】

 中村順司がコーチとして母校に戻ったのは1977(昭和52)年。その前年、PL学園は夏の甲子園大会で2度目の決勝進出を果たしながら、桜美林(東京)に延長11回でサヨナラ負けを喫していた。それより5年前、初の決勝進出だった1970(同45)年にも、原貢監督が率いる東海大相模(神奈川)に6−10で力負けしていた。

 全国制覇まであと一歩で2度も苦杯をなめた。だが、頂点への足取りは確実なものになってきていた。

 監督の鶴岡泰が就任5年目、中村がコーチ2年目を迎えた1978(同53)年の夏。ついに大旗を手にする。神がかり的な逆転勝利が続き「奇跡の優勝」と呼ばれた初の全国制覇だった。

 この頃から、中村が置かれた環境も大きく揺れ動くことになる。

 高校球界で「PL」の名を不動のものにした功労者の鶴岡が1980(同55)年の夏を最後に退任。監督の座が回って来た中村は逡巡する。

 「かなり悩みました。いまさら家族を犠牲にして苦労することはないのではないかと…」

 だが、PL学園を卒業する時点から将来は高校野球の指導者に、と大学で教職課程を取り、社会人野球に進んだのも、そのための経験を積むためだった。

 「いまがあるのは野球があったから。少しでも恩返しができるなら、苦労を買ってやれ、と思いました」

 その年の8月5日。34歳の誕生日に就任要請を受けた。監督として初めて指揮する新チームの主力には、主将の吉村禎章(元巨人)やエースの西川佳明(元南海)がいた。

 中村の監督業は選手との対話、交換日誌から始まった。その中で、ある選手が「バッティングをさせてもらえない」「ノックを打ってくれない」と訴えてきた。

 鶴岡時代は“実力優先”で有能な上級生だけが長時間の練習をこなし、下級生の控え選手はその補助員に回されていた。これはPL学園に限ったことではない。他の強豪校も、現在でも同じような状況にある。

 中村はそのやり方を廃止し、60人ほどの全選手に均等に練習時間を与えた。同時に、練習時間を思い切って短縮した。与えられたことだけをやり、自分からは何もしない、当時の選手の気質を見抜いたからだ。選手の自主性を呼び起こす「賭けだった」という。

 「中村は練習をしない。あれでは甲子園で勝てない」

 こんな批判の声が出始めた頃だった。主将の吉村が、意を決した顔で中村の前にやってきた。 (敬称略)

 ■中村順司(なかむら・じゅんじ) 1946年8月5日生まれ、福岡県出身。PL学園高を経て、名古屋商科大に進み、卒業後は社会人野球のキャタピラー三菱でプレー。76年にPL学園高のコーチとなり、80年秋に監督就任。98年センバツを最後に勇退するまで19年間に甲子園に春夏合わせて16度出場。87年の春夏連覇のほか、春は81、82年、夏は83、85年に全国制覇。監督としての通算58勝10敗は史上2位。

 

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