元PL学園・中村順司編(6) KKコンビ擁し「夏」初出場 実力主義実り「最強時代」へ

★元PL学園・中村順司編(6)

2014.09.07


昭和58年に入学した桑田はすぐに頭角を現した【拡大】

 中村順司がPL学園の監督になって断行した練習改革は、1981(昭和56)年と翌年のセンバツ連覇という結果を出した。1年生でも上級生と同じ練習メニューを課し、時間も均等に与える方式は、3年生を押しのけてレギュラーになれる能力を持った下級生の登用につながった。

 1983(同58)年4月。後の「最強時代」の両輪となる2人の1年生が入学してきた。桑田真澄と清原和博だ。

 清原は身長が180センチ以上あり飛距離は3年生も及ばないものだった。岸和田シニア(大阪)時代にエース兼4番で全国大会で準優勝。この時、決勝を戦う相手チームの監督が練習を偵察した際、清原を見て、練習の手伝いに来ている大学生のOBと間違えたほど体は出来上がっていた。

 中村は入学直後の春の大会から清原を4番に抜擢。以後、卒業まで4番に座り続ける。それどころか、甲子園大会史上で「最強の打者」として名前を刻むことになる。

 桑田もボーイズリーグの八尾フレンド(大阪)時代から有名な投手ではあった。だが入学時は170センチを少し超えた段階。線が細く、ひ弱な印象があった。中村は「どこにいるのか分からないような子だった」と振り返る。それまでのPL学園なら、そんな選手はまず体作りに専念させて1、2年後に戦力に、というのがパターンだった。だが上級生と同じ練習をさせてみると、目を見張るものがあった。中村らの指導者はもちろん、上級生部員をも唸らせた。

 キャッチボールの段階から、桑田は「凄い球を投げた」と中村。当時、臨時コーチとして来ていた清水一夫(元報徳学園、神戸製鋼監督)の助言もあり、すぐに桑田の試合起用を決めた。この清水は以降、桑田を指導。高校球界の大投手となる桑田を育てた功労者として称された。1年生にも均等に練習機会を与えたからこその大発見だった。

 そして夏。春の大会から4番に抜擢されていた清原は堂々の1年生4番(背番号3)。17番を背負った桑田は、大阪大会で期待通りの好投を見せ、中村自身初の夏の甲子園出場に貢献する。

 甲子園大会では桑田は11番に昇格。エースナンバーは3年生の藤本耕がつけていたが、実質的なエースになっていた。

 この時点で心配されたのが、2人の1年生に対する上級生の“妬み”と“やっかみ”だった。下級生が上級生の世話をする“付き人制度”があった寮生活では、これが不祥事の温床になりかねない。だが、中村は実力主義と諭して封じた。

 83(同58)年夏の甲子園。中村が率いるPL学園は、高校野球の“盟主”の座を奪う。 (敬称略)

 ■中村順司(なかむら・じゅんじ) 1946年8月5日生まれ、福岡県出身。PL学園高を経て、名古屋商科大に進み、卒業後は社会人野球のキャタピラー三菱でプレー。76年にPL学園高のコーチとなり、80年秋に監督就任。98年センバツを最後に勇退するまで19年間に甲子園に春夏合わせて16度出場。87年の春夏連覇のほか、春は81、82年、夏は83、85年に全国制覇。監督としての通算58勝10敗は史上2位。

 

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