型破りスター“酒仙投手”石戸四六

2010.09.27

連載:球談徒然

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“酒仙投手”の異名をとった石戸四六。酒、ギャンブルを愛し、太く短い野球人生だった【拡大】

 テレビで石川遼クンを見ていて、スポーツ界のスターはいつの時代からこういうアイドル系に変わってしまったのだろう−と考えた。

 プロ野球界を見回しても日本ハムのダルビッシュ、楽天の岩隈、ヤクルトの由規など、イケメンで、さわやかで礼儀正しく、模範的な若者が多い。

 私が駆け出しのプロ野球記者だった1960年代のスターは、容貌魁偉で男臭く、言動も規格外れの「肉食系」怪物、豪傑ぞろいだった。

 長嶋や王、中西太、豊田泰光、金田正一…高度成長期の時代が求めたスター群像だったかもしれない。そして彼らを取り巻くスター予備軍もどこか型破りの怪獣、珍獣が珍しくなかった。

 昭和40年1月、国鉄スワローズ(現ヤクルト)の担当になったばかりの私は、鹿児島・湯之元キャンプに向かう寝台急行「霧島」に選手たちと同乗していた。

 車窓に夜のとばりが下りるころ、若手選手たちの2等寝台で花札が始まった。後に「酒仙投手」の異名をとる石戸四六はステテコに腹巻姿でもう酒瓶を抱えていた。若者頭格の岡本凱孝捕手が場を仕切っていた。

 石戸四六は3年前、ノンプロからテスト生扱いで入団。正確な金額は忘れたが支度金80万円ほどをもらって契約した日、東京から秋田県大館の実家に帰るためタクシーに乗った。途中、運転手と一緒に温泉宿に泊まり、芸者を揚げて飲めや歌えの乱痴気騒ぎ。大館に着いたときには、支度金はほとんどなくなっていた。

 若手選手たちの花札の輪に、私も顔を覚えてもらういい機会だと考えて加わった。太陽が昇ってもまだ、花札は続いていた。なにしろ当時、東京から西鹿児島までは25時間くらいかかる。

 私はツキにツイて、湯之元が近づくころには、懐には会社で仮払いしたキャンプ取材1カ月の出張旅費を上回るお金が入っていた。

 キャンプの休日、豊田泰光、徳武定之らスターは桜島の古里温泉や鹿児島の繁華街に出かけて行くが、若手は膝小僧を抱え宿舎で退屈している。こちらは持ち慣れない金を手にして使い道もないので、やはり花札勝ち組の記者仲間の一人と「若手を慰労してやろう」と相談した。しかし酒など飲ませて体調でも崩されては、後でバレたとき温厚篤実な林義一監督に申し訳ない。

 「ここは健全娯楽でいこう」と、思いついたのが湯之元温泉に一軒だけあるストリップ劇場を借り切ることだった。

 なにせ男だけのストイックな禁欲生活。若手は1週間も経てば触れただけで鼻血ブーの状態だ。かといって町の人の目があるから、ストリップ見物で息抜きすることもできない。支配人に口止めして、若手選手数人と記者2人が客の貸し切りストリップ公演が催された。

 その年、石戸四六は4年目で初勝利をあげ、やがて金田正一が巨人に去った後の20勝投手にのし上がっていく。昭和45年、3勝15敗で負け越すと、さっさと引退して故郷に帰ってしまった。

 大館の彼からはがきが届いた。「小さなスナック『神宮』を開店しました。毎晩、常連客が飲んでます。ボクです」

 太く短く、夏の夜の花火のように一瞬のきらめきを残し、39歳で人生のマウンドを去った。

■三枝 貢(さえぐさ・みつぎ) 1934年生まれ。早大卒、57年中日新聞社入社。東京中日スポーツ運動部で巨人V9時代のプロ野球記者。東京新聞社会部、特別報道部記者。同放送芸能部長、同編集局次長。新聞三社連合(北海道新聞、中日、東京新聞、西日本新聞)事務局長。2000年退社。早大エクステンションセンター講師(ジャーナリズム講座)、退職。

 

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