大スター主義から転換 長嶋でも王でもない

2009.09.30

 V9戦士が、また逝ってしまった。土井正三内野手。2年前の5月に王貞治と食事をともにした際、「土井が膵臓がんの手術をしたんだよ。それで見舞いに行こうとしたんだけど、奥さんに電話をしたら、意識がないからお気持ちだけで結構です、と言われたんで行くのをやめたんだ」と、初めて病のことを知らされた。

 その年の6月8日、交流戦・巨人−楽天(東京ドーム)の試合前に行われた「球団通算5000勝」のセレモニーに病院の外出許可をもらい、車椅子で参加した。さらに昨年11月27日、東京ドームホテルで開かれた「堀内恒夫の野球殿堂入りを祝う会」には車椅子なしで駆けつけた。さすがに顔色は悪かったが、「持ち前の意志の強さで病を吹き飛ばしてくれるはず」との思いは通じなかった。

 土井と聞いて、まず最初に思いだすのは川上監督の言葉だ。あれは昭和47年、V8を決めた年だった。巨人の強さをテーマに、雑談していたときのことだった。

 「土井こそが川上野球の申し子なんだ!」

 長嶋ではない。王でも、森でも、堀内でもない。監督の口から出たのは土井の名前だった。

 巨人の監督就任後、川上監督は選手時代に持っていた野球観を180度転換した。それは「大スター主義からチームプレー重視へ」の意識転換。36年に牧野茂をコーチに招聘したのもその表れだ。教科書は米大リーグ・ドジャースのアル・キャンパニスが著した「ドジャース戦法」だった。

 チームが目指すべく方向は定まったが、この精神をグラウンドで忠実に実践できる選手を作らなければ何の意味もない。39年、国鉄戦が行われる神宮球場に、いつもより随分と早い時刻に到着した川上監督の耳に、六大学野球の歓声や応援歌が響いてきた。時間つぶしのために何気なく大学生たちのプレー風景を眺めていたとき、とんでもない宝物が目に飛び込んできた。それが立教大の土井遊撃手だった。基本に忠実な無駄のない動き。俊敏性、正確性…。この男ならキャンパニスが唱える「インチ野球(細かい野球)」の柱になれると、即座に獲得を決心したのだ。

 早速、調査を命じたが、スカウト部隊からの返答は満足いくものではなかった。土井は神戸市出身で、同じ兵庫県出身の近鉄・別当薫監督の大ファンなのだという。「プロに行くなら近鉄に」と、早くから決めているというのだ。それでも、川上監督は引き下がらなかった。監督直下の号令が効いたのか、球団は即座に土井獲得チームを結成。まさに総力戦で獲得に漕ぎ着けたのである。V9不動の2番打者は、こうして誕生した。

 インチ野球の申し子を裏付けるエピソードはいくつもある。土井は右打ちの名人だった。通常、右打者の場合は外角球に的を絞るのが一般的。ところが土井は違った。武器はアマチュア時代からの持ち味である捕手寄りのミートポイント。しかも狙い球は内角球。「右に打ちたければ、内角球に狙いを絞って、バットを45度の角度で球にぶつけるんだ」。土井はよくチームメートや若手に右打ちの極意を伝授しようとしたが、後継者はとうとう一人も出なかった。ミートポイントが土井ほど手元に近い打者は皆無だから、真似しようとしても、できるわけがないのだ。

 もうひとつのエピソード。それは土井ほどグラブを大事にする選手はいなかったということ。「これがプロのグラブ?」と、首をかしげたくなるほど小さくて、柔らかい。そして、厚みがない。ロッカールームでも、ダッグアウトでも、暇さえあればグラブを左手にはめていた。口癖は「グラブだと思っちゃいけない。手の一部、延長線だと思わなくては…。特に二・遊間はね」

 川上監督から全幅の信頼を得ていた男だが、こんなことを言ったことがある。「ルーキー時代から長嶋さんとはキャッチボールをするだけで、コチコチになるんだ。でも、監督相手に緊張したことはないなぁ」。プロ入りした40年から、現役を引退した53年までの14年間、見事なバイプレーヤーを演じきった。合掌。

■蔵田 紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

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