【アンコールV9巨人】V9初期を彩った“職人”塩原明

2010.03.03


小柄ながら、V9時代の初期を支えた職人、塩原(背番号28)【拡大】

 ルーキー・長嶋茂雄ブームの余韻が残る昭和34年、ふたりの超高校級の選手が巨人のユニホームに袖を通した。ひとりは早稲田実業高のエースで、2年生のとき、選抜大会で優勝した王貞治投手。もうひとりが松商学園の強打者・塩原明内野手だった。ふたりは34年2月5日、急行「高千穂」に乗り、本隊より1日遅れでキャンプ地の宮崎入りした。

 宿舎の部屋割りを見ると、王は長嶋と同室になっていた。若手の中から「王だけ特別扱いするのはやめてほしい」という声があがるほど、王は目立つ存在だったが、塩原はそれが当たり前だと思っていた。高校時代、松商と早実は定期的に練習試合を行っていたから、王の球の速さは嫌というほど頭にこびりついている。3年になってヒットを1本打ったが、それまではきりきり舞いさせられていた。

 「王君とは何度か試合をしていますが、モノが違いました。数年後、王君がスターで、ぼくが下積みにならないように頑張りたいと思います」。入団直後、塩原は記者に抱負を問われてこう口にしている。

 王はキャンプ1週間で投手失格になったが、それでも一本足打法を引っ下げて、あっという間にスター街道を突っ走っていった。それに比べて、塩原は目立たなかった。173センチ、66キロ。体格の差はいかんともしがたい。「あと5センチ高かったらなぁ」とグチが突いて出たこともある。三塁は長嶋、遊撃には広岡達朗。不動のレギュラーが陣取っており、残る二塁を須藤豊、滝安治と争うことになった。後には土井正三の入団もあり、1、2軍を行ったり来たり。1軍でも代打が精いっぱいだった。

 だが、そんな男に1度だけ願ってもないチャンスが巡ってきた。日本プロ野球史に残る大荒れの日本シリーズ。36年の南海戦がそれだった。あまりのドラマチックゆえに試合を追ってみたい。

 大阪球場での第1戦は雨で順延。第2戦も雨にたたられた。第1戦は南海のエース、スタンカに2安打、1四球で完封負けだった巨人だが、第2戦は塩原のタイムリーヒットなどで主導権を握って勝ち、不名誉な日本シリーズの連敗を9でストップさせた。後楽園球場へ移った第3戦も宮本敏雄のソロホーマー、広岡、塩原の連打で逆転勝ちし、2勝1敗となった。

 ここから一挙に荒れ始める。このシリーズ3度目の雨天中止が2日も続く。そして、第4戦。9回表に南海が逆転し、その裏2死から代打・藤尾茂の平凡な一塁フライを寺田陽介がミットに当てながらポロリ。2死一、二塁から長嶋の三塁ゴロを小池兼司がファンブル。それでもスタンカは踏ん張り、宮本を2−1と追い込んで、会心の外角低めへストレート。捕手の野村克也は「ストライク!」と腰を浮かせたが、円城寺主審の判定は「ボール!」。鶴岡一人監督らが猛然と抗議したが受け入れられず、カーッとしたスタンカの外角高めを宮本がはじき返し、逆転サヨナラの幕切れとなったのである。話はまだ終わらない。最後のプレー中、マウンドからホームベースのバックアップに走ったスタンカがその勢いのまま円城寺主審に体当たりしたのだ。

 このシリーズ、結局4勝2敗で巨人が勝ち、川上監督は就任1年目で日本一に輝いた。塩原=16打数6安打(打率、3割7分5厘)、宮本=22打数9安打(打率、4割9厘)。

 ふたりはシリーズ首位打者を争っていた。最終第6戦、2−2で迎えた10回無死一塁で打席は塩原。ここでヒットを打てば逆転首位打者になれる。が、牧野茂三塁コーチャーからのサインは「送りバント」だった。何の感情も表に出さないまま、塩原は一塁線に得意のバントを決めた。試合終了後の表彰式、宮本敏雄がMVPと首位打者、塩原は優秀選手賞だった。

 42年11月28日、熱海の「後楽園ホテル」で開かれた巨人納会の席上、川上監督の前に座った塩原は「お世話になりました。引退して、野球界とサヨナラします」といってビールを注いだ。わずか9年間のユニホーム生活だったが、東京・目黒の自宅応接間にはシリーズ優秀選手のトロフィーが1本、燦然と輝いていた。球界とサヨナラした塩原は今、埼玉の名門「嵐山カントリークラブ」の支配人として活躍している。V9初期を彩った職人であった。

 ■蔵田 紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

注目情報(PR)