【アンコールV9巨人】「野球経験ゼロ」のコーチ誕生

2010.04.14


プロ野球のトレーニングコーチの草分けとなった鈴木章介コーチ【拡大】

 V9巨人に、「野球の経験がゼロ」というコーチがいたことをご存じだろうか? 鈴木章介ランニングコーチ(後にトレーニングコーチ)である。

 昭和40年1月4日午後、東京・西銀座の球団事務所で発表された内容に、担当記者は首をひねった。39年10月の東京オリンピックの十種競技で15位だったのは知っているが、野球の門外漢が巨人のユニホームを着るというのだから、記者が面食らうのも当たり前だった。このアイデアは川上監督自身のもの。監督1年目の36年に大リーグを視察した際に考えた結論だった。

 「あの渡米で、走ることが攻・守・走の基本であることを痛感したんだ」。プロ球団初という奇抜な発想に、川上監督は得意そうに語ったものである。

 背番号「78」、伝統のユニホームこそ皆と一緒だが、バットも持たないし、グラブもはめない。首からぶら下げているのは、ストップウオッチと笛だけ。40年1月23日、早大の大隈会館で文子さんと挙式したが、その会場にトレーニンググッズ一式をボストンバッグに詰めて持ち込み、式の翌日に巨人軍多摩川球場の合同自主トレに参加したというエピソードを持っている。

 キャンプ中はグラウンドに立たず、隣の陸上競技場が職場となる。それまでは「打つ、投げるが野球」と信じてきた野球人は、根底から洗脳される結果になった。

 鈴木コーチの信念はこうだ。「すべての動作は足の5本指で、地面に力を伝えることから始まるんです。一連の筋肉を鍛えるには5本指で蹴ること。つまり走ることが一番なんですよ」。もって生まれた明るい性格で、たちまち選手たちとの意思の疎通もとれたが、練習に妥協はなかった。

 1年目、早くも王貞治、宮田征典、城之内邦雄、広岡達朗、森昌彦らベテランや主力選手が、鈴木門下生になった。鈴木の指導法は選手と肩を並べて走り、汗をふきながら話し合う…というもの。黒い表紙のルーズリーフノート。ここに書かれたメモが選手個々のカルテになるのである。

 「首脳陣がいくら教えようとしても、教えられないことが3つある。足の速さ、肩の強さ、バッティングアイ、この3つは持って生まれたものでしょう。ぼくが教えたもので成果があったのは、ワンちゃん(王)の足ぐらい。彼はプロ入り後に速くなりましたね」

 選手たちが悲鳴をあげるのが、キャンプ中のタイムアタック。グラウンドでくたくたになったあげくに、陸上競技場で1600メートル走るのだから、ベテラン選手も「章介さん、助けて!」となる。

 もっとも、本隊から遠く離れた最下位は王と長嶋茂雄選手と相場が決まっているのだが…。選手だけではない。「ゾウやん(筆者の愛称)、400メートルでいいからタイムをとろう」と、鈴木コーチから突然のご指名。前夜のアルコールが抜けきっていないのに、だ。

 「優勝を競り合う大事な9月ごろにスタミナ切れを起こす選手がよくいます。あれは6月の梅雨時からオールスター休みまでに、手を抜くランニングをしている証拠。9月以降の体力は梅雨時の走りこみで決まります。それも、首脳陣から言われて走るのではなく、これが自分の身になる、という自覚を持って走るのです」と、繰り返し話していたものだ。

 鈴木コーチの努力が1年目に報われた。試合が始まると、私服に着替えてネット裏に移るのが日課だったが、10月14日、川上監督に呼ばれて、こういわれた。「きょうは試合中もベンチにいるように…。胴上げの瞬間の感激を一緒に味わおうではないか」。監督が与えた最高の栄誉だった。

 今ではすべての球団がトレーニングコーチを置いている。その第1号が鈴木コーチだったのである。

 ■蔵田 紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

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