【球談徒然】広岡GMエリート入団させメジャー野手への「羨望」払拭

2010.05.10


広岡達朗氏(左)を取材する筆者=1995年、ロッテのアリゾナキャンプで【拡大】

 これは一人の野球人が、永年の夢を実らせた話である。

 「あしたは日本球界にとって画期的な日になる。バリバリのメジャーリーガーが“見てくれ”と言わんばかりにやってくるんだ」

 就任間もないロッテ・広岡達朗GMにそう囁かれたのは、1994年11月6日のこと。埼玉・武蔵浦和にあるロッテ浦和球場で行われていた秋季練習の最中であった。

 入団テストを受けるのは、フィリーズからFA宣言したピート・インカビリア外野手だという。調べてみると、まだ31歳。オクラホマ州立大出身で、フィリーズ入団1年目から4番を打ち、30ホーマーをマーク。その後、タイガース、アストロズなどでも活躍し、驚くのは当時でも2〜3人しかいなかった1度もマイナー経験のない超エリート・メジャーリーガーであった。

 それまで日本球界入りした外国人選手といえば、峠を越した選手か、掘り出し物を狙ったような若い無名選手が大半だった。バレンタイン監督を慕っての売り込みとはいえ、米国野球に追いつけ、追い越せ−を信条とした巨人軍創始者・正力松太郎翁を崇拝する広岡GMには、特別な思いがあっただろう。

 さて一夜明けの7日、球場に現れた待ち人は、下がユニホームで上がジャージー姿。草野球でよく見受けられるスタイルで、午前10時から始まった2軍練習から参加。その姿はエリートというにはほど遠い光景だった。

 そんな見方が一変したのは、午後から行われたフリー打撃。いきなり初球をバックスクリーン越えに放ったのだ。推定飛距離150メートル弾。その後も外野後方に張られた防球ネットに広角でぶつける独演会。ネットがなければ左翼後方に並行して走る埼京線の電車を直撃しそうな打球に、見守った1軍選手たちも呆然だった。

 一人冷静だったのは広岡GMだ。「打ったのはまっすぐ。あれにだまされるんだよ」と話したが、5日間に渡る諸々のテストの末に、インカビリアは契約金30万ドル。年俸170万ドル、さらにホームラン数などのインセンティブを含む1年契約を結んだ。わざわざ埼玉まで足を運んだかいがあったというもの。

 そのインカビリアの後日談。公式戦では日米のストライクゾーンの違い、環境の違いなどのカルチャーショックに見舞われ、メジャー時代でもなかった人生初の2軍落ちを味わっている。結果、71試合に出場して打率・181、10ホーマー、30打点の低レベルの成績で日本球界から去った。帰国後はオリオールズ、ヤンキースなどでプレーしたのだから、最後まで日本の野球になじめなかったということだろう。

 もっとも、広岡GMが評価したもうひとつの売り物、気性の荒さは健在だった。おとなしいチームからの脱却を図るため、同GMが掲げた「やられたらやり返せ」のスローガンは、インカビリアの2度におよぶ退場劇で拍車がかかり、チームを闘う集団へと変貌させた。前年5位だったチームは、優勝争いに参加できる2位にまで浮上したのだ。

 近年、日本人野手のメジャー入りは珍しくもなくなったが、15年ほど前までは野手のメジャー挑戦は、とてつもなく高い壁だった。その羨望の意識を取り払うキッカケとなったのが、広岡GMが行ったインカビリアのテスト入団だったと、筆者は今でも信じている。

 「あれほどのスター選手でも日本球界では通用しなかった。日本のレベルは決して低くない。俺たちもメジャーでやれるのでは…」。多くの日本人野手が似たような感想を抱いたという。

 インカビリアのテスト入団が行われた1994年、日本記録のシーズン210安打を放って大ブレークしたオリックス・イチローが、日本人野手として最初に海を渡ったのは2001年のことである。

 ■角山 修司(つのやま・しゅうじ) 1945(昭和20)年、新潟県長岡市小国町生まれ。柏崎工時代は駅伝の選手として活躍。大学卒業後、夕刊フジ、サンケイスポーツでプロ野球を担当。ヤクルトの初優勝や江川卓投手が巨人入りした際の“空白の一日”などを取材した。40年近い現場取材の経験から、球界に知己が多い。

 

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