【昭和偉人交友録】高輪で一気に広がった人脈

3.11

 東京・四谷の上智大学構内にあった練習場でアシスタントプロをしていた私に、願ってもない移籍話が舞い込んだ。昭和37年のことだ。頻繁に練習に来ていた大昭和製紙創業家一族の斉藤孝さん(後に同社社長)が、「今度、ウチで新しいゴルフ場を始めるから、渡部君もどうだ」と勧誘してくださり、千葉県白井村にオープンする船橋カントリークラブにお世話になることになった。

 プロテストを控えていた私にとって、練習場よりも本物のコースで働けることは大きな魅力だったが、いざ移籍してみると誤算だらけ。中でも「今プロになられては困る」と、一部役員からその年のプロテスト封印を告げられたことは、1日でも早くライセンスを取得したい私には苦痛の種だった。

 就職を世話してくれた斉藤さんには申し訳なかったが、私の決断は早かった。船橋入社後、わずか1年足らずで迷いなく辞表を提出。退路を断って埼玉県川口市の浮間ゴルフ場で開催された第1回テストに臨んだ。

 予選には120名が参加。私はトップの成績で抜け出した。当時は年に4度受験会が催され、うち2度受験してトータルの数字が合格点を満たせば晴れてプロとなれる方式。ところが数カ月後、千葉県野田市の千葉カントリークラブ川間コースで行われた2度目のテストでは、散々な結果に。最初の受験会で得た貯金をすべて吐き出したどころか、大きくスコアを崩し、なんと不合格になってしまった。

 理由は明白だった。最初の受験はまだ船橋を辞めた直後で、実戦勘に狂いはなかったが、2度目の受験では浪人のブランクがモロに出てしまい、いわゆるコース勘が欠乏していたのだ。このまま無職が続けば、永久にプロにはなれない。焦り始めた私のもとに、幸運な知らせが届く。東京・品川の高輪ゴルフで、アシスタントプロを募集しているというのだ。もちろん、働きながらプロテストを受験してもいいという内容。迷う理由などなかった。

 この高輪の地で、私の人脈は一気に広がった。俳優の池部良さんやサラリーマン小説で人気作家として不動の地位を築いていた源氏鶏太さんら、多くの方々に可愛がられた。私を信じて熱心にレッスンを受けに来る生徒には、とことん付き合うのが私の流儀。そんな中に人気歌謡バンド・マヒナスターズのギター奏者、日高利昭がいた。

 当時のマヒナスターズはまさに人気絶頂期。昭和35年の第2回レコード大賞では「誰よりも君を愛す」で大賞受賞。高輪ゴルフで私と出会った昭和38年から39年頃にかけては三沢あけみとのデュエットでヒットした「島のブルース」、「ウナ・セラ・ディ東京」、「お座敷小唄」とまさに日本歌謡に残る名曲を連続で大ヒットさせて大変な勢いだった。

 年齢が2つしか違わないこともあって、すぐに「日高ちゃん」「ベーやん(渡部の部を文字った)」と呼び合う仲になり、日高ちゃんもゴルフの腕前をグングンと上げていった。当時、高輪ゴルフには30近い練習打席があったが、平日の午前中などは4〜5人程度しか人影がなかった。実にノンビリとしたもので、今にして思えば彼ら有名人も人目を気にすることなく余暇のプライベートタイムを満喫できる環境にあったのだろう。あるとき、日高ちゃんが、私のもとに一人の背の高い友人を連れてきた。

 「べーやん、彼を知ってるよね? 今日から一緒に教えてほしいんだけど…」

 紹介されたのは、当時、日本テレビ系列の帯番組「シャボン玉ホリデー」のレギュラーとして抜群の人気を誇っていたクレージーキャッツの犬塚弘だった。聞けば、ゴルフはまったくの初心者で、一からレッスンを受けたいという。年齢は私よりも6歳ほど上だったが、実に真面目な性格で、とても当代一の人気コメディアングループのメンバーとは思えないほどだった。

 打つ際にどうしても左脇が開いてしまう悪癖が出るため、靴の中敷を左脇に挟ませて「落とさないように打ってみて」と指導したら、『絶対に落としちゃいけない』と思ったのか、今度は一途なほど左脇ばかり絞めていつまでも打ち続ける。そんな愛すべき性格に惚れて、「ワンちゃん」「ワタさん」と呼び合うようになるまで、そうは時間がかからなかった。

 マヒナスターズの日高ちゃんが紹介したワンちゃんが、やがて数カ月も経たないうちに今度はリーダーのハナ肇を連れてきた。このハナちゃんがまた、とんでもない生徒で…。(渡部秀朗プロ)

■わたべ・ひでろう 1935(昭和10)年4月16日、長崎県長崎市生まれ。18歳のときに福島県いわき市湯本でゴルフ修行に入る。22歳で上京し、アシスタントプロに。政、財、スポーツ、芸能各界の著名人とレッスンを通じて膨大な人脈を築く一方、1967年にはトーナメントプロライセンスも取得。ワタベゴルフ企画代表取締役、社団法人日本プロゴルフ協会会員。

閉じる