−−ラーメン立志伝−−
丼に賭けた男たち(1)

京都「天下一品」・上

 終身雇用も崩壊し、不況のなか、脱サラして飲食店経営を目指す人が増えている。なかで最も志す人が多いのがラーメン界。素人ながら『屋台から身を起こし、成功した』という伝説もラーメン界ではよく聞かれる。ラーメンに命を賭けた男たちの物語は−。

 「屋台やったらこの金だけでもできるんちゃうか」

 当時、手元あった全財産はわずか3万7千円。勤めていた会社が3カ月給料未払いのまま倒産。貯金も妻子を養う生活費に消えていたときだった。

 鉄くずのスチール棚を解体し、友人の板金職人に屋台の骨組みを無料で組んでもらう。屋根はベニヤにトタン板を乗せただけ。

 しかし、食材の仕入れを考えると、すでに使える金は底をついていた。

 「もう、鍋買う金もあらへん。どないしようか」

 ガソリンスタンドからオイル缶をもらい、鍋の代用にするため、匂いが抜けるまで3日かけて洗った。

 昭和46年、京都・白川の町で屋台を引き始めた木村勉氏(現「天下一品」グループ代表)。当時36歳。初日は11杯。金額にして990円の売り上げだ。これが現在、年商80億円の企業に成長した天下一品グループの始まりだった。

 まだ暴対法のない時代。屋台のショバ代は暴力団の典型的なしのぎだった。

 「ヤクザが2、3人で来て『ショバ代を払え!』いいますのや。もう、何回も袋叩きに遭いましたな」

 血だらけの氏を駆けつけた警察官が近くの病院に連れていこうとする。だが、氏はこれを拒絶する。

 「病院に払う金がないんですわ。包帯ぐるぐる巻きのまま屋台引いて。生活がありますから必死です。そのうち『こいつは殺さな言うこと聞かん』とあきらめてくれはった」

 天下一品といえば、濃厚かつ個性的なスープが特徴だ。だが、当時は、そのスープは完成していない。

 「最初はどこの屋台でも出してはる鶏ガラスープ。でも、どこでもあるもんでお客さんはきいしません。どこにもないものを作らなあきまへんのや」

 木村氏は屋台で出すスープとは別に鍋を焚いて様々な食材で研究を始める。

 「これではアカン、これではアカンの連続でしたな。今のスープができるまでに約3年。でも、完成したのは屋台の設備ではとうてい出せへん難し過ぎるスープだったんですわ」

 いつか店を構えたらこの味で勝負する、そう誓いながら屋台を引く日々。その頃には屋台も軌道に乗り、目標の1日100杯は売れるようになった。

 だが、妻が子供を連れて家を出ていったのはちょうどそんなときだった。連日朝までの営業。帰ってもラーメンの研究ばかり…。

 「いつか開店資金にしよう思ってた貯金を養育費として全部渡しましてな、すってんてんです」

 さらに、それまで屋台の営業をしていた空き地にビルが建築されることに。屋台の許可は地主からもらっていたが、確実に『追い出される』と感じた。

 「建築会社は大手中華料理店を入れる計画で、でっかいガス栓引いてましたわ。ところがビルの持ち主の地主さんが『1階は木村君に商売させる』言ってくれはりまして」

 ところが、前妻に養育費をすべて払ってしまった直後で、金はない。

 「事情を説明して店を作る金ありまへん、いうたら『そんなもんどうでもええ』って銀行に連れていかれましてな。『この男に金貸したってくれ』って。地主さんの土地を担保にして800万円融資をうけられたんです。結局、これも自己資金ゼロのスタート。(地主さんは)私の生涯の恩人ですわ」

 苦節4年。ようやく天下一品1号店(現在の総本店)が京都北白川に開店したのだった。

=下へ続く



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