−−3回生の衝撃−−
〜「安倍晋三」大研究(2)〜

サラリーマン安倍

◇父から会社を「辞めろ」と言われ…

 政治家の名門に生まれ育った安倍晋三幹事長。幼少、少年時代、そして「サラリーマン晋三」時代のエピソードから、素顔に迫った。

 「幼い頃から私には身近に政治がありました」と晋三氏は振り返る。

 昭和35年、5歳の時だった。祖父・岸信介首相(当時)が日米安保条約改定を強行採決したことで、デモ隊は渋谷区南平台の岸邸を取り囲んだ。

 「私邸から出られなくなった祖父が遊びに来いと呼ぶんです。家の中では鬼ごっこや馬乗りして遊ぶんですが、外の『安保反対』とのシュプレヒコールにつられて『アンポ、ハンタイ』と口にしながら家の中を走り回っていたら、父から『アンポ、サンセイといいなさい』と叱られた。でも、祖父は悠然と笑っていた」(晋三氏)

 小学4年から5年にかけ、東大生だった平沢勝栄衆院議員が家庭教師をしていた。現在、北朝鮮による拉致問題に尽力する2人の奇妙な縁だ。

 「『なぜ、空は青いのか』などと分からないことがあると、食らいついてくるようなところは、岸元首相のDNAを引いたのだと思う。でも、当時、はやっていた『おそ松くん』の『シェー』のポーズを良くまねする普通の子どもでもあった」(平沢氏)

 当時、父の晋太郎氏は落選中。母の洋子さんもほとんど地元・山口にいた。平沢氏は遊び相手になってほしいと頼まれ、映画に行ったり、キャッチボールをした。

 「たまに両親が帰ってくると、本当にうれしそうだった。やはり、さみしかったのでしょう」

 晋三氏は小学校から大学まで成蹊学園に通った。大学卒業後、米カリフォルニア州立大と南カリフォルニア大大学院に、それぞれ1年間留学。

 昭和54年には、神戸製鋼に入社。57年11月に退社するまでニューヨーク支社、加古川製鉄所、東京本社で勤務した。

 わずか3年のサラリーマン生活だったが、加古川時代の同僚で、寮で同室だった岩田雅延さん(46)は「印象に残っているのは寛容な人間だったということ」と話す。

 また、酒をほとんど飲まなかったことから、車で飲みに行ったときには必ず運転手役をやっていたという。「付き合いのいい人物で重宝した。今、考えるともったいない」と岩田さんは笑う。

 退社したのは、父・晋太郎氏が外相に就任し、秘書官になるためだったが、その際、父ははこう言い放ったという。

 「会社を辞めて、明日からおれの秘書になれ」

 晋三氏は「実にぶっきらぼうな言い方だった。『責任もあるし、すぐに辞められません』と抵抗したが、父はすでに社長に根回ししていた。上司から逆に退社までの予定を示されてしまった」と述壊する。

 母の洋子さんも著書で、晋太郎氏は「おれが秘書官になったとき、辞めると決めたら1日で新聞社を辞めたぞ」と言い切り、結局、晋三氏は1週間で退社した、と記している。

 前出の岩田さんは「会社が休みの日にもよく、父親の代理で冠婚葬祭に顔を出すために出かけていたし、『兄が政治に関心がないので、継ぐのは自分だろう』と時折、口にしていた」と話す。

 その家庭環境からも政治の道に足を踏み入れたのは必然だったのだ。

(梶川浩伸)


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