新庄氏は足が速く、外野手としてはイチロー氏に匹敵する強肩を誇った。通算打率は・249で外角の変化球が苦手だった。好成績だった2000年のシーズンには打率・278、28本塁打、85打点、15盗塁を記録。2001年にFA権を取得すると、複数のセ・リーグ球団から提示された大型契約のオファーを蹴ってニューヨーク・メッツと年俸20万ドル(メジャー選手最低保障額、当時約2200万円)で契約し、それを聞いた叔父は「何考えてんだ、お前は馬鹿か!」と叫んだとか。
「自分の力を試したい」それが新庄氏の答えだった。「それに俺は野球を楽しみたいんだ」
この契約に、当時米国初の日本人野手としてシアトル・マリナーズと契約したばかりだったイチロー氏は不快感を示していたという。
「一体メッツはなぜあんな奴と契約したんだ?」とイチロー氏がコメントしたと伝えられた。「彼みたいな奴が行けるなら大リーグも近頃はたいしたことない、ということだ。僕と新庄を一緒にするなんて冗談やめてくれ」
■稲葉GMの“制御”必要
予想に反し、新庄氏はニューヨークで才能を見せつけた。大事な場面でヒットを打ち、センターフィールドで素晴らしい守備を見せた。仲間のエラーをカバーしようといつも内野ゴロに向かっていった。米国人野手でこれをやろうとする選手はそうはいない。
実際、当時メッツ監督だったボビー・バレンタイン氏は、ある時熱くなって思わず新庄氏を〝MLB最高のセンター〟と呼んだことがある。だが123試合に出場して打率・269、10本塁打でシーズンを終え、2002年はサンフランシスコにトレードされた。
新庄氏を1970年代にボストン・レッドソックスでプレーしたビル・リー投手と重ね合わせる野球ファンもいる。彼もまた風変わりで歯に衣着せぬコメントから「スペースマン」の愛称で呼ばれた。リーはマオイスト中国、グリーンピース、人口抑制の擁護派を公言していた。ある時はもう少しで審判の耳を噛みちぎりそうになった。マリフアナを使っていることを自慢げに話すこともあった。采配批判が多く、(恰幅の良い)ドン・ジマー監督の容姿を「ジャービル(スナネズミ)」のようだと揶揄した。そのせいもあって1982年には球界からつまみ出された。
私はサンフランシスコで新庄氏に二度インタビューしたが、彼の存在によって球団には大きな混乱が生じていた。118試合に出場し、打率・238、本塁打9本という成績ながら、一挙手一投足を二十数名のリポーターがいちいち書き立てた。当時のダスティ・ベーカー監督は頭を抱えていた。
「同じ人物について毎日質問を繰り返されるのには慣れていない」と彼はため息をついた。「24時間ごとに何を語れと言うんだ?」
新庄氏がベンチで過ごす時間が長くなると当然「新庄パトロール隊」は新しい話題に飢えてくる。あるリポーターは新庄氏がカストロ地区のストリップ劇場やゲイバーに出入りする姿をキャッチし、バーテンや常連客に、このハンサムな若者が店をひいきにしているかどうかと取材して回った。これを聞いた新庄氏は非常に気分を害し、しばらくは日本の取材陣に口を開かなくなり、ジャイアンツのロッカールームへの入室を禁じた。