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1986年9月―。カセット・テープ企画「ノンフィクション・エクスタシー」の発売(11月10日)が決まる中、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)は慌ただしかった。制作・宣伝部門の異動が行われたのだ。
明菜の宣伝はデビュー2年目の83年から田中良明(現在は「沢里裕二」名義で作家活動)が担当してきた。が、その田中が宣伝から制作への異動が決まり、後任の宣伝担当として田口幸太郎(前日本レコード協会専務理事)が就いた。
「田中さんは少年隊の制作ディレクターになったこともあり、正直いって引き継ぎをしている余裕などはなかったですね。とはいえ、3年間も明菜を担当していた田中さんの後を引き継いだわけですから、無我夢中というか…、現場のペースについていくだけで必死でした。で、最初に担当した作品が『ノンフィクション・エクスタシー』でしたが、振り返ると明菜の作品としてはほとんど売れませんでした。もちろんカセット・テープ企画ということもありましたが…。チャートでは1位を獲得しましたがセールス的には明菜の数字ではありませんでした」
制作ディレクターだった藤倉克己(現音楽プロデューサー)はいう。
「明菜のファン層の拡大を考え、カラオケブームに乗って遊び心で作ったものでしたからね。僕自身はセールスを伸ばすというより、(当時の)できれば40代、50代に聴いて歌ってほしいと思っていました。カセット・テープだけの発売は極端に思えますが、明菜だからこそできたことで、今でも的を射た企画だったと自負していますが」