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松本清張は知る人ぞ知るチェーンスモーカーで1日10杯は飲むコーヒー党だった。執筆のために泊まったホテルのボーイが、清張の部屋を訪れると灰皿に吸い殻がいくつも山盛りになっていたので驚いたという。
1978年に野村芳太郎と「霧プロダクション」を設立、代表取締役に就任した。これは「黒地の絵」を映画化したかったからといわれる。
シナリオも第1稿が完成していたそうだが、結局頓挫することになる。この経緯については西村雄一郎の「幻の映画『黒地の絵』を夢見た男たち」(95年、砂書房)に詳しい。
霧プロは84年に解散の憂き目を見るが、その間「熱い絹」の映像化にも注力し、高倉健、渡辺謙、仲代達矢らビッグネームを拝してロケハンを行い、東宝、松竹、東映での制作も検討されたがこちらも幻になった。
つまり「わるいやつら」は霧プロがもがいていた最中に完成したわけだ。松竹と霧プロの第1回提携作品。84年の映画「彩り河」まで5作品を松竹と提携で製作した。