
鹿児島市に、庭の塀ごしに錦江湾と桜島が見える絶好の撮影スポットがある。島津家19代当主・光久が1658年に建てた別邸「仙巌園(せんがんえん)」である。隣の建物は「尚古(しょうこ)集成館」といい、島津家の歴史や文化を知るうえで貴重な品々がたくさん展示されている。
その尚古集成館の入り口を入ったら、すぐ振り向いていただきたい。そこには島津家の大きな家系図が展示されている。
「ああ、家系図だなぁ」と思ったら、その最初の部分をよく見ていただきたい。島津家の初代当主、つまり始祖・忠久(ただひさ)の名がある。そして、その父の欄には何と! 源頼朝の名前が。母は丹後局(たんごのつぼね)。「鎌倉殿の13人」の一人、比企能員(ひき・よしかず)の妹で、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の娘である。
さらに付け加えると、能員の娘・若狭局(わかさのつぼね)が、頼朝の長男・頼家の側室になり、長男(=頼朝の初孫)の一幡(いちまん)を産んだ。鎌倉幕府内で、比企家は北条家と並ぶ権勢を誇ることになった。
一説によれば、頼朝の妻・政子は、この比企家の屋敷で長男・頼家を産んだといわれる。忠久を身ごもった丹後局は、政子の怒りを恐れて、ひそかに鎌倉を脱して忠久を産んだ、とも言われている。