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沖縄は15日、1972年の本土復帰から50年の節目を迎える。第二次世界大戦の敗戦後、日本の主権が回復した後も沖縄では27年間も米軍統治が続いた。ロシアによるウクライナ侵攻が、中国による台湾有事や沖縄・尖閣諸島有事に連動する危険性が指摘されている。米国防総省の職員として59~72年まで沖縄で勤務し、返還の瞬間にも立ち会った日系2世の北村サムエル氏(95)が当時を振り返り、現在の沖縄についても語った。
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台湾有事の危機
「(返還時の米側行政トップの)ジェームス・ランパート高等弁務官は傘もささずに、(住民側の自治機関である)琉球政府の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)主席に手を差し出した。2人はがっちりとお互いの手を握り締めた。そのとき、米空軍嘉手納基地内に掲げられていた星条旗が降ろされ、日章旗がするすると登り始めた。今でも鮮明に覚えている」
北村氏は1972年5月15日午前0時前後の様子を、こう語った。
歴史的な沖縄返還は、69年11月21日、佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領による日米首脳会談で正式合意された。米軍統治の功罪について、北村氏は次のように指摘した。
「琉球大学の創設や、数千人に及ぶ若者の米国留学、医学・看護教育のレベル向上、琉球銀行の創設、電力公社の創設、インフラの整備などはプラス面として評価できる。マイナス面としては、統治のために沖縄の自治を制圧したのは大きい。米軍兵士による犯罪も反省すべきだ」
地政学的注目
沖縄住民の本土復帰の思いは複雑で、一筋縄ではいかなかったという。
「沖縄県となれば、本土並みの経済振興が図られ、教育の向上や平均所得の増加、観光客の急増、基地の大幅削減などを期待する人々がいた。一方で、軍用地主や基地内の従業員など、基地経済の恩恵を受けていた住民には、基地軽減による収入減は大きな懸念だった。基地反対派にも基地内従業員は多数いて、『米軍基地には反対だが、失業も嫌だ』という矛盾を抱えた人々もいた。少数だが、琉球独立を訴える論客もいた」
ウクライナ侵攻を受けて、中国による台湾侵攻、尖閣侵攻のリスクが指摘される。沖縄の地政学的重要性も注目されている。北村氏は語る。
「アジアの主要都市に数時間で行ける沖縄は、かつて『太平洋の要石』と呼ばれた。台湾と沖縄の距離はわずか110キロ。尖閣諸島周辺には連日、中国海警局船が侵入している。台湾有事は、日本にとっても安全保障上の危機といえる。日本とアジアの平和と安定のため、米軍基地は不可欠な役割を求められている。米国だけでなく、NATO(北大西洋条約機構)諸国も危機意識を日本と共有している。沖縄の重要性は、冷戦時代以上に高まっている」