
源頼朝の側近、もちろん「鎌倉殿の13人」の一人に、大江広元(おおえ・ひろもと)という人物がいる。鎌倉市が発行した「鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック」を開くと、彼はもともと、京都の朝廷に仕える儒学を専門とする下級貴族の養子で、京都では朝廷の実務官としてキャリアを重ねていたとある。
広元は、頼朝が挙兵すると、養父の縁もあって鎌倉に下向する。その後、幕府の政務処理を行う公文所(くもんじょ)の初代別当(長官)にまでなった。承久の乱(1221年)では、幕府側の勝利に貢献した。公文所はのちに政所(まんどころ)に改められた。
この広元の4男に季光(すえみつ)という人物がいる。彼は広元から、相模国毛利荘(=現在の厚木市)を譲られ、季光は地名にちなんで毛利姓を名乗った。やがて承久の乱で武功を挙げた季光は褒美として、安芸国吉田荘(=現在の安芸高田市)の地頭職を与えられる。
のちに、この吉田荘にある城の城主になったのが戦国時代の知将・毛利元就(もとなり)であった。前回触れた頼朝の墓、そこから70メートルほど行ったところに北条義時の墓もある。さらに階段を上っていくと、薩摩長州二藩が整備した島津忠久、大江広元、毛利季光の墓があった。
今、「薩長両藩で整備した」と書いたが、両藩のエリアは玉垣できちんと区分けされてあり、2列に並んだH字形石段の中腹にある踊り場を経由しないと、隣(他藩)の墓まで行けないようになっている。
頼朝の時代から、薩長はお互いを意識せざるを得ない、気を使う間柄だったんだと思うと、ちょっと頰が緩んだ。