1982年のデビュー後、あっけないほどのスピードでスターの階段を上り詰めていった中森明菜。年末の賞レースでも「新人賞」は逃したが、85年と86年には2年連続で「日本レコード大賞」を獲得するなど、文字通り80年代の歌謡界を代表する女性アーティストとなった。
当時を知るベテラン音楽ライターの1人は「バラード調の作品を歌うかと思えば、アップテンポな作品も歌う。同期(82年)のアイドルばかりか、80年代のアイドルの中でも異彩を放っていたことは確かです。明らかに他のアイドルとは一線を画した世界観を築いていました」。
果敢に歌の幅を広げ続ける明菜をそう評価するが、一方で「歌唱力としてのピークならば、おそらく『難破船』から『AL―MAUJ(アルマージ)』、そして『TATTOO』を発売した87年から88年だったのではないか」とも。
実際、ファンの間でもそういう声が多いのも事実だ。ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で明菜の担当ディレクターだった藤倉克己(現フリー音楽プロデューサー)も「それについては僕も感じていた」とした上で、「この年代の声の質感が一番良かったことは確かですね。もっとも『難破船』や『AL―MAUJ』を挙げるのなら、その前の作品『TANGO NOIR』とか『BLONDE』も引けをとりません。とにかく明菜の声の持っている情感は天性のものだったと思いますね。さらに彼女の中低音は言葉には表せないぐらいに素晴らしかった。もちろん高い音域も良かったけど、ビブラートを加えた中低音のボーカルは他の女性アーティストでは出せない味というか、魅力だったと思っています。もしかしたら骨格が違うのかもしれませんね」。