横浜銀蝿のリーダー、嵐(らん)ヨシユキさんが4日、肺炎のため67歳で死去した。闘病を続けながら生涯を走り終えたクレイジー・ライダー。横浜銀蝿40thとしてカムバックした2年間、傍らで見守っていたギターのJohnnyが想い出を語る。
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横浜銀蝿の始まりは僕と翔くんが同じクラスになった高校1年。翔くんの3つ上のお兄さんの嵐さんと出会ったのは高校2年、バイト先のパーラーの怖い先輩としてでした。当時は暴走族が全盛だったから、おっかなくて悪い人(笑)。でも頼りがいがあって、当時からブレていなかった。
大学生のときに僕と翔くん、嵐さん、ほか2人の5人で横浜銀蝿を組んでいた。オーディションを受けまくったけど全部ダメ。37回目でやっと受かりましたが、事務所がほしかったのは嵐さんだけ。残り4人はアマで楽しんでいました。ところが3年のときにほか2人が抜け、TAKUとバンドを組んだ嵐さんも今ひとつ。そして嵐さんから声がかかり、嵐、翔、TAKU、Johnnyの銀蝿が誕生しました。
大学4年の1980年にキングレコードからデビュー。〝オリコンでシングル&アルバム1位、武道館満タン〟を達成して解散という無茶な目標をぶち上げ、成し遂げられたのは嵐さんのブレない馬力があったからです。