【秘録 今明かす「あの時」】大蔵省の責任に言及した『覚悟の報告書』 国広氏「山一は日本企業の悪い意味での典型例」

調査報告書を発表する山一証券の社内調査委員会。右から2人目が国広正弁護士=1998年4月

★山一証券自主廃業から20年(下)

 1997年11月22日朝。弁護士の国広正(62)は、自宅に届いた日本経済新聞朝刊を見て驚いた。

 《山一証券 自主廃業へ 負債3兆円、戦後最大 顧客資産保護へ日銀特融》

 1面トップに、見出しが大きく躍っていた。四大証券の一角である山一が倒産するとは考えてもいなかった。同時に「仕事がなくなったな」と残念に思っていた。

 一般市民を主な依頼主とする「町弁」だった国広は、暴力団などが民事紛争に介入して不当に利益を得る「民暴(民事介入暴力)」を専門にしていた。その力量を見込まれ、97年夏から、山一の「総会屋絶縁チーム」に加わっていたのだ。

 いったん切れたと思っていた山一との縁は再びつながる。山一に発足した社内調査委員会の委員となるよう求められた。

 話を受けるかどうか正直、迷った。国広は「暴力団ならいくらでも相手できるけれど、証券は分からないし、とてもじゃないけどできないだろう」と考えたが、こう思い直した。「人間が何を考え、どうごまかし、どうやって隠したかというファクトの部分ならばできるのではないか」

 覚悟を決め、調査に没頭する日々が始まった。午前中に事務所で仕事をこなし、午後からは山一本社に詰めた。調査は深夜に及び、泊まり込むこともあった。

 手探りの調査だった。どこから手をつけていいかさえ分からなかった。「部品集め」から始まり、簿外債務が膨らんでいった経緯を徐々に描き出していった。

 調査委員会は山一社員7人と弁護士2人で構成されていた。社内の人間はどこを調査すれば、どんな資料が出てくるかを熟知していた。一方、国広らは、社会に公表するという観点から、調査の足りない点を指摘し、文章を分かりやすくすることにこだわった。

 「社内だけでも、社外だけでもできなかったと思います」

 98年4月に発表された報告書は社会的に高い評価を受けた。一方で、大蔵省(当時)の責任にまで踏み込んだ内容に、周囲からは国広の身を心配する声もあった。

 「『大蔵省が悪い』って書いてあるわけですから、『日本の金融機関からそっぽ向かれるよ』といわれました。でも、もともと企業や金融機関を依頼者にするつもりはなかったから、『別に平気だよ』と答えていました」

 思いとは裏腹に、同様の仕事が次々と舞い込んだ。それは、負の遺産を抱えた企業で「問題を公表すべきだ」と考える改革派からの依頼だった。数々の企業などで第三者委員会や調査委員会の委員を務めた国広は現在、「企業の危機管理」のスペシャリストとして知られる。

 山一破綻から20年を経た現代日本は、国広の目にどう映るのか。

 「山一というのは超異常な会社ではなく、日本企業の悪い意味での典型例なんです。20年たって、先送り、隠蔽という山一的な体質は総量としては減ってきているとは思うけれど、一部の企業には残っている。だから不祥事が終わらない」

 国広が指摘する通り、企業不祥事は今も後を絶たない。日本社会はまだ、悪しき体質から完全に決別できていないのかもしれない。=敬称略(森本昌彦)