“本能寺の変”は貨幣鋳造権めぐる争い?

2012.10.02


坂本城跡に立つ明智光秀の石像。謀反の真相は何だったのか【拡大】

 今回は、「本能寺の変」と通貨との意外な関係について触れたい。

 本能寺の変の真相、特に明智光秀の動機についてはさまざまな説が提示されており、いまさらとっぴな説を挙げるのもためらわれるが、戦国時代の通貨を語る上でこれを無視するわけにもいかない。すなわち、光秀の動機に「貨幣鋳造権」が絡んでいる、という仮説である。

 光秀が10年以上も治めていた近江国の坂本(大津市)は、貨幣鋳造の一大拠点であった、といわれている。日本独自の貨幣が存在しなかったこの時代において、貨幣鋳造とは「私鋳銭(ニセ金)づくり」を指す。良貨とされる宋銭を真似てつくっていたのだ。

 この私鋳銭づくり、もちろん表向きには犯罪であるが、実際には戦国大名も鋳造に加わっていたと思われる。なぜなら、大名こそ兵糧・武具の調達、知行・褒美の授与のために、銭を最も欲していたからである。「いかがわしい私鋳銭づくりをしなくても、独自貨幣をつくればいいのに」とも思うが、当時は質の高い明銭ですら実績がないために悪貨扱いされた時代。新たな貨幣をつくって庶民の信用を得るのは、たとえ織田信長クラスの大名でも困難だったのだ。

 もっとも、当時は鋳造が秘密裏に行われ、文書での記録は残るはずもない。だが日本独自の貨幣をつくるようになった江戸前期には、坂本は江戸などと並ぶ鋳造拠点として幕府に選ばれ、海外でも『サカモト』といえば日本製の高品質の貨幣を指していた。これは江戸期に突然鋳造が始まったとみるよりは、延暦寺の門前町として仏像づくりが盛んで、石垣職人として名高い「穴太衆(あのうしゅう)」も輩出するなど、職人の技術力に定評のあった光秀の時代から、積極的に貨幣をつくっていたと考えるのが妥当だろう。

 それを踏まえて本能寺の変について考えると、「光秀が信長に内緒で私鋳銭をつくり、それがバレたため謀反を企てた」という推察もできる。だが、より現実的なのは「信長の特命で私鋳銭づくりをしていた」という見方だろう。そして、本能寺の変の直前に信長が下した「坂本は取り上げる。出雲・石見は自由に所領にしてもよい」という命令が史実だとすれば、それは単なる領地替えではなく「貨幣鋳造権の剥奪」も意味したはずである。貨幣鋳造権は光秀にとって経済力の源であり、信長と共有する大切な秘密でもあった。それが剥奪されることはすなわち、主従の決別−光秀にとって謀反に至る強い動機となったのではないか。

 一方、信長には『光秀に石見銀山を与え、銀貨づくりを任せる』という意図があったのかもしれない(当時、銀は新しい貨幣として注目され始めていた)。

 以上が、本能寺の変と通貨の関係をひもとく仮説であるが、これらはあくまで憶測の域を出ない。すべての謎の答えは、本能寺の炎とともに消え去ってしまっている。

 ■山田真哉(やまだ・しんや) 1976年神戸市生まれ。大阪大学文学部日本史専攻卒。受験予備校に就職するが退職し、その後、公認会計士・税理士に。会計学を身近な話題から探究する『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社新書)が160万部を超える大ヒット。会計ミステリー小説『女子大生会計士の事件簿』もシリーズ100万部を突破した。近著に『経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書』(講談社)。

 

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