徳川家光が復活させた銅銭と鎖国の真相

2012.10.30


寛永通宝は鎖国や参勤交代の義務化など時代のうねりのなかで登場した【拡大】

 平安時代に途絶えた日本独自の「銅銭」を、実に700年ぶりに復活させたのは徳川家である。「寛永通宝」という名をご存じの方も多いのではないだろうか。徳川幕府の成立時に権威の象徴としてつくられたと思われがちだが、実は、その登場は三代将軍・家光の時代になってからである。

 なぜ家康や秀忠がつくろうとしなかった日本独自の銅銭を、家光が復活させたのか?

 その理由の1つに、「海外への銅銭の大量輸出」が挙げられる。

 日本は、戦国時代半ばまでは銅銭を輸入に頼っていたが、中国が銅銭をつくらなくなったことや、貿易の担い手だった倭寇の取り締まりが強化されたことで、十分に輸入できなくなった。一方、国内では鉱山開発が進んで銅が大量産出されたため、各地の大名や民間人によって、中国銭をマネた銅銭がつくられるようになった。その結果、江戸時代初期には、逆に日本が銅銭の輸出国になっていたのである。それも、品質が極めて高かったため、日本やオランダの商人たちが大量に買い付けて東南アジアに輸出していた。

 しかし、銅銭の大量輸出が続くことは、すなわち国内の銅資源の大量流出であり、さらには銭不足も引き起こしていた。当時は銅銭のほかに金貨・銀貨も存在していたが、少額決済の場において銅銭は欠かせなかった。銭不足が深刻化して、代わりに米などが物品貨幣として使われるようになってしまっては、流通が停滞して経済危機を招きかねない。

 これを食い止めるには、銅銭の輸出を禁止するとともに、外国で流通しないよう、中国銭のマネではない独自の銭をつくる必要があった。そこで家光は、1635年に日本人の海外渡航・帰国の禁止(朱印船貿易の終了)、翌年に寛永通宝を発行、さらにその翌年には銅の輸出を全面禁止したのである。そして、1639年には鎖国が完成する。鎖国には、新たに構築された貨幣システムに、銭の流出入など海外からの経済的影響を排除する目的があったのだ。

 さて、寛永通宝の発行にはもう1つの理由がある。それは、1635年の「参勤交代義務化」である。参勤交代は、長期に渡って大人数が旅することで食事や宿の代金が大変な額になるうえ、宿場町などでその都度、少額決済をしなければならない。これをスムーズに実施させるために、幕府は大量の銭を用意する必要があったのだ。

 そして、銭が大量であるだけではまだ足りない。価値が統一された銭がなければ、大名は地域ごとに通用する銭を用意しなければならなくなる。こうした背景により、旧来の銭は廃止、寛永通宝が法定通貨とされ、明治時代中期まで使用されたのであった。

 「寛永通宝」「鎖国」「参勤交代」−。授業で丸暗記した一見バラバラな事柄も、経済的背景を知ればすべてがつながる。これが、経済視点から歴史を見る利点なのである。 =おわり

 ■山田真哉(やまだ・しんや) 1976年神戸市生まれ。大阪大学文学部日本史専攻卒。受験予備校に就職するが退職し、その後、公認会計士・税理士に。会計学を身近な話題から探究する『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社新書)が160万部を超える大ヒット。会計ミステリー小説『女子大生会計士の事件簿』もシリーズ100万部を突破した。来月、歴史クイズ絵本『わしは誰じゃ? 戦国武将の巻』(理論社)を出版予定。

 

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