【秘録 今明かす「あの時」】『岸壁の母』と交換のスクープ写真、歌詞カード渡し「病室の窓10センチ開けて」

入院していた慶応病院の屋上に姿を見せた石原裕次郎さん。右はまき子夫人、左は渡哲也さん=1981年6月、東京・信濃町

★番記者が明かす裕次郎伝説(中)

 「太陽にほえろ!」(日本テレビ)や「西部警察」(テレビ朝日)を通して、石原裕次郎さんとお会いする機会は増えていくが、裕次郎さんは「病との闘い」を繰り返す。そのため芸能マスコミの「闘病中の取材合戦」は一段と激しくなっていく。

 1981年5月8日、47歳の裕次郎さんは胸部大動脈瘤(りゅう)という難病で倒れ、東京・信濃町の慶応病院に運ばれた。生存率5%もないオペに、15人の外科医が病院の威信をかけて挑んだ大手術だった。

 奇跡的に一命を取りとめた裕次郎さんの容体はスポーツ紙が「裕次郎闘病日誌」の形で連日取り上げた。

 どこがスーパースターの写真をスクープするか? 各社の記者は休日返上で病院に詰めた。当時、私は某スポーツ紙の番記者だった。入院10日目の5月18日の午後のこと。院内にいた「コマサ」と呼ばれていた石原プロの番頭、小林正彦専務が満面に笑みを浮かべて私に近づき、声を落として「おい、社長(裕次郎さん)が立ち上がり、自分でフォークを使って肉ジャガを食べたんだ」と明かした。

 そして、「しかも歌いたい歌があると頼まれたんだ」と言う。

 裕次郎さんのリクエストは「岸壁の母」。石原プロには、なかにし礼氏が作詞した社歌があったが、宴会のときには自然に「岸壁の母」の合唱となり、最大限に盛り上がる。小林専務は「石原プロの俳優と社員はみんな母親思い。だから、この歌が社歌のようなものなんだ」と話し、そして「『岸壁の母』の歌詞カードが欲しい」という。

 「しめた!」。私はその日、病院に連れてきた後輩記者の百瀬晴男くんに「急いで会社の資料室に電話して、『岸壁の母』の歌詞を書き取ってくれ」と命じた。

 達筆の彼は、歌詞をきれいに便箋にメモした。私は、それを専務に渡すときに「5分でいいので社長の病室の窓を10センチほど開けてほしい」と懇願した。

 「交換条件だな。よ~し、いいだろう」と渋々の承諾だ。わが社のカメラマンが撮影したスクープ写真は、裕次郎さんが点滴のついた右腕で歌詞を持って、♪母はきまし~た…?-という構図である。次いで屋上で散歩する裕次郎さんの写真もスクープできるなど幸運が続く中、入院46日目に裕次郎さんは退院した。

 数週間後に「西部警察」の全国キャラバンロケが決まり、裕次郎さんは東京都調布市の石原プロからロケ隊を手を振って見送った。

 囲みインタビューの後、裕次郎さんは私の腕時計を見て、「おや? 俺のと一緒だな」と話しかけてきた。歌手の三橋美智也さんから、会社の先輩の小西良太郎さん、そして私と流れてきた古い時計はロレックスGMTマスター。裕次郎さんが「太陽にほえろ!」で愛用していたものと同じだった。

 これが縁で、私は裕次郎さんから「中野ちゃん」と名前で呼ばれるようになった。しかし、以降、彼は一度もGMTは腕に付けなくなった。小林専務に理由を聞いた。「スターは人と同じオシャレはしないんだよ。プライドだよ、見栄だよ」と言って笑った。(中野信行)