【サザンオールスターズ40周年への轍】1991年 原由子が単独で大活躍 29thシングル「ネオ・ブラボー!!」リリース

★第14回

 バブル景気の崩壊で「失われた10年の始まり」といわれた1991年。クウェートで湾岸戦争が勃発し、長崎では雲仙普賢岳で大規模な火砕流が発生、取材や地元の関係者など43人が犠牲となった。東京都庁が丸の内から西新宿に移転し、育児休業法が成立。また「ジュリアナ東京」スタイルがはやり、チャーリー浜の「じゃ~あ~りませんか」とギャグフレーズがブームに。そして、本田技研工業の創設者・本田宗一郎氏が死去した年でもあった-。

 桑田佳祐は「アコースティック・レボリューション」と題した、オール洋楽カバーのソロ・ライブを、東京・新宿の日清パワーステーションで繰り広げた。

 桑田の青春時代を彩った60~70年代の洋楽ナンバー26曲をアンプラグドスタイルで演奏するという異色のスペシャルライブだった。

 このライブに参加したバンド・メンバー(桑田、小林武史を中心として、小倉博和、佐橋佳幸、角谷仁宣ら)が、後に「SUPER CHIMPANZEE」と呼ばれるようになった。

 「SUPER CHIMPANZEE」は、サザンオールスターズと同時進行でフットワークの軽い活動を展開することになる。

 まず7月には北京へ渡り、万里の長城や天安門などで日中友好音楽使節団として演奏したり、現地のライブハウスに飛び入り参加も。桑田はこのとき、ロックを通じての国境や言葉を越えたコミュニケーションを実感し、熱い想いを胸に抱いたという。

 そして、「SUPER CHIMPANZEE」として9月に、北京で披露した「クリといつまでも」をシングル発売した。ちなみに、11月にはファンの要望に応えて「クリといつまでものカラオケつき」もリリースしている。

 こうして「SUPER CHIMPANZEE」は、短くも密度の濃い期間をもって活動を停止した。今では幻のユニットとなってしまったが、その後のサザンにも新たな刺激を与えた。

 サザンとしては、7月に29枚目のシングル「ネオ・ブラボー!!」をリリース。この曲はTBS系の報道番組「筑紫哲也のニュース23」のエンディング・テーマになった。

 8月には東名阪の野外スタジアムツアー「THE 音楽祭1991」ツアーがスタート。新旧の曲のなかから全35曲、多彩なアレンジで3時間じっくり聞かせる構成にファンは大喜びだった。

 この夏から、ベースの関口和之が体調不良で、サザンの活動から一時離れている。一方、原由子は8年ぶりのソロ・アルバム「MOTHER」を発表。他の作品と同様、桑田が全面プロデュースしたもので、歌入れは自宅にあるプライベート・スタジオ「猫に小判スタジオ」で行われた。

 「ラブソングを歌い続けられる世の中であってほしい」-。そんな彼女の願いが込められたアルバムに仕上がった。また、このアルバムのヒットと前後して、原は単独でテレビCMやテレビ番組に出演するなど大活躍だった。そして、6月には初のソロツアー「花咲く旅路」もスタート。そして、12月31日にはソロで「NHK紅白歌合戦」にも出場した。

 なお、サザン恒例の年越しライブ「闘魂! ブラディ・ファイト年越しライブ at 横浜アリーナ」も開催された。テーマは、「ロックとプロレスの融合」。

 リングアナの紹介によってメンバーはプロレスラー風に登場。辻よしなり、山本小鉄による実況解説、そして新日本プロレスが乱入するなど、ひと味違ったカウントダウン・ライブが繰り広げられたのだった。(芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)