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【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】音楽教育の原初までさかのぼってみると…(2) (1/2ページ)

 今回は前置きなしで、いきなり本論に入ります。明治時代の音楽教育について、「そんな昔の話、令和になった今と関係なくね?」と思う方も多いかもしれませんが、こーれーがー、意外と今の「音楽教育」に直結している話なんですよ。続けます!

 日本の音楽教育の定礎をおこなった伊沢修二は、一八五一(嘉永四)年--ペリーが来航し、彼が連れてきた軍楽隊によって、日本で始めて「洋楽」がパンパカパーンと鳴らされたその二年前に、信州の高遠藩に生まれました。彼は幕末の混乱期に、主に理系の洋学を中心にして学を修め、明治政府の文部省に出仕し、愛知師範学校校長となったのちの一八七五年、二四歳で政府から米国留学を命じられます。

 留学した彼は、主にマサチューセッツ州の大学でアメリカにおける師範教育の在り方を中心に学び、この時、ボストンで音楽教育家として名を成していたルーサー・ホワイティング・メーソンの教えを受けます。

 帰国後、伊沢は文部省に進言して「音楽取調掛」の設立を準備。また、メーソンを日本に呼び寄せて事業に協力してもらう手はずを整えます。明治十二年、伊沢を長として音楽取調掛はスタートしました。そして、翌年の明治十三年にメーソンが来日し、明治十五年までの足掛け二年間、メーソンは日本における音楽教育の基礎固めに関わることになります。

 メーソンは音楽取調掛の顧問的な存在として初期のさまざまな事業に関わりましたが、彼の仕事のなかで特筆すべきものは、やはり、学校で教えるべき唱歌を伊沢とともに選定・編纂・制作して『小学唱歌集・初編』(明治十四年刊行)に代表される教科書を作り上げたことでしょう。

 メーソンは、そもそも市民戦争後のアメリカ教育界にあって、ヨーロッパ各国の歌とアメリカ独自の歌を折衷させることによって、アメリカ市民が公の場所で唄い奏でるべき、あたらしい音楽の普及に貢献した教育者として知られていました。

 この情報は伊沢がアメリカに留学する前後から日本に届けられており、伊沢らは、日本と同じく内戦後にあった新生アメリカにおいて、いわば「米欧折衷」による国民音楽を作ろうとしたメーソンの典を仰ぐことで、これからの「日本の国民的音楽」の在り方を定立しようと考えていたのでした。

 音楽取調掛の設立に当たって、伊沢修二は以下の三つの事業をその目的として掲げています。

第一項 東西二洋の音楽を折衷して、新曲を作る事。

第二項 将来国楽を興すべき人物を養成する事。

第三項 諸学校に音楽を実施する事。

 東西の音楽の「折衷」によってあたらしい「国楽」を作ること。その音楽を隆盛させ得る人材を育てること。そのための教育システムを確立すること。「音楽取調掛」は制作・育成・普及という三つの事業でもって、あたらしい日本に相応しい音楽を生み出すことを目的として設立され、そして、その第一歩に当たる仕事が「小学唱歌集」の選定だったという訳です。

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