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【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】音楽教育の原初までさかのぼってみると…(4) (1/2ページ)

 近代日本の音楽教育の定礎をおこなった伊沢修二は、その最初期の成果と、今後の「日本の音楽」が取るべき方針についてを文部省に提出したリポートにおいて、これまで日本の音楽で使われてきた「音律」=音楽の基礎要素は、「西洋のドレミと毫も変わることなし」と結論しました。

 伊沢のこの報告に対して、当時、反論はなかったのでしょうか。関係文献をいろいろ読んでみたのですが、どうやら直接的に彼に反対する意見は上がらなかった模様です(時代は下って、明治二十六年に、同じく音楽取調掛に勤務していた上原六四郎は「俗楽旋律考」を著述し、伊沢のこの意見に対して修正を加えることになります。このエピソードについては後述します)。

 伊沢によれば、これまでの日本の音楽は、メロディーの組み立て方や和声の取り扱い方が違っているだけで、根本的なところは西洋の音楽と同じなのです。なので、これからの日本の音楽がやらなければならないことは、西欧諸国が大成させた「音楽理論」を勉強して、その成果を自分たちの作品に反映させること、これである、という話になります。見事なほど典型的な「和魂洋才」の主張ですね。

 伊沢のこの論に沿って、以後の日本の公式の音楽教育は進んで行きます。しかし、この伊沢が提示している説の根拠は相当に曖昧なのです。以下、吉田孝氏が「毫モ異ナル所ナシ-伊澤修二の音律論」(2011、関西学院大学研究叢書)で指摘していることを踏まえて、箇条書きでまとめると、

1)盲人の三味線奏者が曲を弾く時に押さえた場所が、平均律によって付けたマークと(ほぼ)同じだった。という実験ですが、これは設定こそもっともらしく見えますが、フレットない三味線の竿を上下する演奏中の指を黙視して、それがマークと一致しているかどうかを判断する、という作業は、観察者の主観に大きく左右されるきわめて曖昧なものではないでしょうか。それが音楽取調掛の関係者によって、つまり、身内だけでおこなわれた作業であるならなおさらのことです。そもそも、三味線とその楽曲には厳格な固定ピッチは存在していません。三絃の基準音をドレミに揃えるくらいのことは簡単に可能です。

2)山勢ら盲人の邦楽ミュージシャンたちが、自身の筝によってピアノとすぐに共演できた、ということも、筝のコマの場所さえ適切に変更すればピアノのそれと調律はすぐに合わせられますし、そのくらいの耳(特にパーフェクト・ピッチを持っているなら)と腕前は、プロの音楽家であった彼等にはみな備わっていたと思うのが妥当です。おそらく、要するに、山勢らは「西洋音楽の調律って変わってるなあ」、と思いながら、チョチョッとチューニングを変えて演奏しただけなのではないでしょうか。

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