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【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】「君が代」と「唱歌」と「明治頌」(1) (2/2ページ)

 興味深いエピソードとして、この薩摩ブラスバンドと、その指導に当たったイギリス人、ジョン・ウィリアム・フェントンによって、現行のヴァージョンではない、言ってみれば「初代」に当たる「君が代」が作曲され、演奏されていたという話があります。

 明治2年、英国王子が来訪するに当たって、英国のそれと並べて「日本の国歌」を演奏することをフェントンは提案しました。しかし、当時の日本には「国歌」どころかその概念すらありません。彼らは相談の結果、薩摩藩に伝わる薩摩琵琶曲「蓬莱山」の中の一節を歌詞とし、それをフェントンの前で何度も唄って採譜してもらい、それをもってして当座しのぎの「国歌」として、エディンバラ公の来朝に間に合わせた、ということです。

 辻田真佐憲『ふしぎな君が代』(幻冬社新書)、および、小田豊二『初代「君が代」』(白水社)にその経緯は詳しく書かれていますので、興味をもった方はぜひ当たってみて欲しいと思いますが、つまり、音楽取調掛が始動するその10年ほど前から、海軍では洋楽の習得と実演が成されていたということですね。日本の洋楽はまず海軍から、なのです。

 そして、年表にも折り込みましたが、明治政府に務める伶人たち=雅楽の演奏家たちは、明治7年から海軍軍楽隊に「洋楽」を習いに出向し始めます。宮廷行事その他の儀式において、彼らが担当する「音楽」においても、国外のそれを演奏しなくてはならない場面が増えてきたということでしょう。彼らは洋楽・邦楽のバイリンガルとして、明治期の音楽シーンをこの後、リードしてゆくことになります。

 このように、明治初期における日本政府御用達の「音楽」は、海軍省軍楽隊、宮内省雅楽課、そして文部省音楽取調掛という、その立場も機能も異なった三つの機関が競合するようにして、制定されてゆくことになります。実は、教育のための「唱歌」の試作は、伊沢らの文部省ではなく、まず雅楽課の伶人たちの手によって成されたのでした。1878~79年のことになります。そして、この「唱歌」は、いわゆる「雅楽」の旋律をもっぱら援用することで作られていました。

■大谷能生(おおたに よしお)

 音楽と批評。ミュージシャンとしてジャズを中心に、さまざまなバンドやセッションで活動。著作としては『平成日本の音楽の教科書』、『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』、『東京大学のアルバート・アイラー』(菊地成孔との共著)、『日本ジャズの誕生』(瀬川昌久との共著)、『身体と言葉』(山縣太一との共著)など多数。