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【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】「君が代」と「唱歌」と「明治頌」(7) (1/2ページ)

 この連載の前半部分で、--だいたい連載の7回目から11回目くらいにかけて、伊沢修二が「これからの日本の音楽」すなわち、「これから学校で教えられてゆくべき公式の音楽」について、どのような意見を持っていたのかについてを取り上げてみました。

 彼の音楽家としてのキャリアは幕末における軍楽隊の太鼓叩きから始まっています。そして、教育家としての彼は、遊戯と歌唱を使って幼児に体操を教えるところから、明治の教育政策の中に入っていきました。後年、彼は吃音教育にも積極的に取り組むことになりますが--そして彼の師であるメーソンは、実は「歌うことによって重度の吃音を克服した」人間であったということが伝えられております--、このように、伊沢修二にとって「音楽」とは、「芸術」として「鑑賞」されるものであるよりもまず先に、発声と律動と音によってダイレクトに身体に働きをかけ、人々の身体と心を近代的な社会システムに適応できる状態に「調律」してゆくための、きわめて効果的なツールとして認識されていたのだと思います。

 伊沢が日本に呼び寄せたメーソンは、アメリカ市民戦争後の再建期に、「これからアメリカで唄われるべき歌」のモデルとなるべきものを、初等音楽教育において社会に対して示すことに成功した人物でした。

 彼は世界の民謡や童謡などから、近代アメリカ市民の全員が歌うのにふさわしい歌を析出して、「これからアメリカで教えられるべき、歌われるべき音楽」の雛形を制作しました。伊沢がお手本にしたのはこのような姿勢です。例えば、唱歌「蛍の光」は、もともとはスコットランド民謡だと伝えられていますが、しかし、それはスコットランドから直接日本に持ってこられたものではなく、一度メーソンの耳と手を通してアメリカ大陸に輸入され、アメリカという「異国」でもそれが十分に機能することが分かった上で、再度日本へと移し変えられたものなのです。明治の初頭において、伊沢が学校で教えようとしていた「歌」は、いわば、初めからグローバリゼーションを体現しているかのような、このような「歌」だったのでした。

 しかし、明治10~20年代の政局にあって、このような「グローバル化」を狙った文化的取り組みは、音楽に限らず、きわめて慎重に行われなくてはならないものでした。連載(13)において、その当時の音楽政策に関わるトピックを挙げておきましたが、この時期は宮内省、陸・海軍軍楽隊、そして文部省がそれぞれの立場から、三つ巴になって「日本の公式の音楽」を巡るヘゲモニー争いをしております。

 そして、現在の目からこの年表を見直し、また、ここで作られ、今に到るまで残された「歌」を実際に聴くことで感じるのは、伊沢修二が考え、望んだことを、彼は見事な政治的手腕で実現させたのではないか、ということです。

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