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【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】ビジュアルを前面に巻き返し! 「3年計画」でジャケットの撮影カメラマンを人選 (1/2ページ)

 いわゆる“花の82年組”といわれるアイドルで中森明菜のデビュー曲『スローモーション』は“不発”に近かった。もちろん「事務所やレコード会社が弱かった」とはいえ、数ある音楽番組や大手芸能誌の明菜への評価は低かった。

 そんな中でもデビュー前から明菜を積極的に起用したテレビ東京『ヤンヤン歌うスタジオ』の沼部俊夫プロデューサー(故人)に生前、明菜について聞いた。

 沼部氏は「明菜ちゃんは本当に(番組に)貢献してもらいました」と前置きした上で、「アイドルの中でも歌唱力はズバ抜けていたし、素材として素晴らしかったので迷うことなく出演してもらいました。勘もよく、周りにも気遣う子で、なるべくしてビッグになったと思っています。あえていうなら彼女は視聴者の反響がすごかったことでしたね。しかも、そういったファンを大切にしていました」。

 しかし、明菜を評価するテレビ局のプロデューサーは少なかった。「沼部さんのようなプロデューサーはまれだったかもしれません」とワーナー・パイオニア(当時)で明菜のプロモートを担当した富岡信夫氏。

 そんな業界内の動きを明菜も感じ取っていたのは確かだった。「口には出しませんでしたが『絶対に負けない』と思っていたはず。とにかく芯も強く、負けず嫌いの子でしたから」(富岡氏)

 当時を知る芸能関係者は「明菜は思い込みや感情が激しい一方、真面目でストイックなタイプ。デビューは16歳でしたが新人の中でも勘は優れていたと思います。おそらく当時からセルフプロデュースの才能も持ち合わせていたように思います。相手が大人だからとこびることもなく、現場でもマネジャーに自分の意見を言っていた。ですから当然、デビュー当時の屈辱はあったはずですし、その後の活動で大きなバネになっていったように思いますね」。

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