記事詳細

【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】あたらしい「四民」のための「歌」と「儀式」の発明(4) (1/2ページ)

 突然ですが、ぼくが好きな小説の一つに、「無法松の一生」という短編があります。原題は「富島松五郎伝」と言って、何度も映画になった有名な作品ですが、原作を実際に読んでいる人はそれほど多くないんじゃないかと思います。作者は岩下俊作。この人ももうあまり話題にのぼらない小説家ですね。昭和十四年に発表された小説です。

 舞台は北九州の小倉。主人公は人力車夫の松五郎。設定によると彼は明治4~5年、つまりだいたい1872年くらいの生まれで、無学で喧嘩っぱやいが、一本気で純情、という、いかにも明治生まれの下層労働者の典型として描かれています。大正8(1919)年に彼が亡くなるまでをこの小説は辿ってゆくのですが、彼の生涯のそのつれづれの場面で、いろいろな歌と音楽が出てくるんですね。

 尋常小学校にも通わなかったとされる松は、しかしとてもいい声で追分節を唄いながら人力車を流してゆく。外から聞こえてくるその声を居酒屋なんかで聞くとみんなしんみりとして聞き惚れてしまう。彼が若い時分に「お前なんかが見る芝居じゃない」と言われ、カッとなって舞台の邪魔をしに行ったのは新派による「日清戦争」劇でした。日清戦争は1895年前後。その頃には旧来の歌舞伎劇とは異なった、インテリ向けのニューウェーヴ演劇が地方でも話題になり始めていたのでした。彼が出入りすることになった吉岡大尉一家の長男は、学校で覚えた唱歌「青葉の笛」を家で披露します。この頃から「唱歌」というものが一般的になってきたという訳ですね。

 中学生になると、行進するときに彼らは軍歌を唄います。松は祇園の祭りで、もう誰も打つことが出来ない「蛙打ち」「流れ打ち」「暴れ打ち」といった伝統的な祇園太鼓の打ち方を披露してみんなに驚かれます。彼がこの打法をどこで覚えたのかは誰にもわかりませんでした。「暴れ太鼓」という言葉の出どころである、この小説の中でもっとも有名なエピソードですね。生涯木賃宿での一人暮らしだった「無法松」は、ある日の朝、学校の校庭の隅で行き倒れに近い状態で死去します。そのときに彼の耳に入っていたのは、校舎の中から聞こえてくる子供たちの唄声でした。

 〈唱歌は実に美しく、そして美しく可憐ななかに哀感を湛えた曲であった。

 ナノーハーナバタケエーニー

 イリーヒ、ウスレ

 ミワアータース、ヤマアノオーハ

 カースーミー、フカシー

(中略)

 酩酊した松五郎は、その唄声に和して淋しく吟じた。〉

 こうして松五郎は亡くなります。追分を唄い、古式の祇園太鼓を叩く明治ヒトケタ生まれの労働者は、子供たちが唄う唱歌によって見送られて亡くなるのでした。