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【あの人も愛した 京ぎをん浜作】菊池寛、志賀直哉らと同じく…谷崎潤一郎も「浜作文人」の1人だった (1/2ページ)

 祇園町での開店から2年後の1929年、世界恐慌が起こり、日本も大不況となったが、浜作は世の東西に聞こえるほどの繁栄を誇った。「浜作の栄ゆる見れば世の海に 不景気の風の吹くとしも思へず」と坪内逍遥が詠んだのはこの頃だ。

 「有馬記念」にその名を残す有馬頼寧伯爵も常連だった。栄も競走馬を6頭所有するほどで「ウマがあったのでしょう」と三代目の森川裕之氏は笑う。栄が京都競馬場一番館(馬主専用館)に開設した特別食堂はセレブの社交場となった。

 有馬伯爵の紹介で菊池寛が通うようになった。文藝春秋の創業者にして芥川賞・直木賞の創設者である菊池が常連となったことで、浜作は文人のサロンになった。栄は菊池と共同で「キクハマ号」という馬を所有しているのが自慢だった。

 京都・奈良に住んでいた志賀直哉ら白樺派の面々も通った。初代の長男・英太郎(松竹の映画監督を経て、電通で多くの映像作品を手がけた)は志賀の姪と結婚した。

 関東大震災後に関西に居を移した谷崎潤一郎も浜作文人の1人。谷崎は上方の風土になじめず、エッセーでは京都・大阪への愛憎半ばする思いを書いているが、食事については「料理法も材料も大体関西の方が優っていることは勿論である」と認める。これも浜作があったからこそであろう。

 昭和30年代初頭のある夏の日のことを2代目の森川武の妻、洋子は後年までよく覚えていた。その日、谷崎と松竹社長の城戸四郎がふらりと店を訪れ、カウンターに座るなり「鱧が食べたい」とだけ言った。あいにく初代は留守で洋子はあわてて鱧を買いに行かせた。

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