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【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】とりあえずの終わりに(2) (2/2ページ)

20)この方向性は現在まで踏襲されており、基本的に今でも学校で教わるのは〈バラバラな個人を「みんな」という集団にするための音楽〉です。しかしこれは、音楽に限らず、全ての義務教育で教えられる科目に共通するところですね。ガッコで教わるのは近代国家を運営することの出来る近代的な人間に成長するためのもろもろであって、その中に「音楽」も必修としてあるのだ、と。

21)子供の頃に学校で習った「音楽」の勉強が、後年、例えば、自分が積極的に好きになったポップスやロックなどの「音楽」と結びつかないことがあるとすれば、それは、後者の音楽がきわめて個人的な、自分だけに取って大切な、自分を「みんな」から切り離して、自分が自分になるために使われる音楽だからだと思います。個人の領域にある音楽としてのポップスは、「みんな」の領域にある学校の音楽と、齟齬をおこしやすい。

22)明治から昭和の終わりまで、つまり1870年から1990年あたりまでの120年間は、ポップスという個人的な音楽は、そのベースを江戸からつながる三味線音楽の音感に置いていました。この連載では取り上げませんでしたが、敗戦と復興を経てバブルに至っても、日本のポップスの基盤には「邦楽」がどっしりと居座っていたのです。

23)ポップスが邦楽だった時代は、ドレミ=公共のもの、邦楽=個人的なもの、ということで、教える方としても悩む必要はなかったわけです。しかし、現在では、ポップチャートから三味線の音感は消えてなくなり、個人的なものも、公共のものも、全てを一面的にドレミの音感が覆っている状態にあります。

24)この状態にあって、日本の音楽教育は、巷間の音楽=ポップス=商業音楽と自分たちとの差異を明らかにするために、改めて「邦楽」を教えることに乗り出してきた。平成時代から増加している「日本の音楽の勉強」という科目は、このような経緯から作られたものだったのでした。

 ーー以上が、この連載で筆者が書いてきた事柄のまとめです。150年にもわたるハナシなので、かなり大雑把な見立てになってしまってはいますが、議論の叩き台としては、叩けばホコリは出るとは思いますが、平手でバンバンやっても容易には壊れないものを用意出来たのではと思っております。筆者の仕事のメインは執筆と同時に、演奏することです。この連載も半分は、自分の演奏と作曲の土台を確かめることを目的として、書いてきました。この先どこかで、演奏の現場で、皆様とお会いできることを楽しみにして、一旦このテーマを閉じさせていただきます。ありがとうございました。

■大谷能生(おおたに よしお)

 音楽と批評。ミュージシャンとしてジャズを中心に、さまざまなバンドやセッションで活動。著作としては『平成日本の音楽の教科書』、『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』、『東京大学のアルバート・アイラー』(菊地成孔との共著)、『日本ジャズの誕生』(瀬川昌久との共著)、『身体と言葉』(山縣太一との共著)など多数。