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【あの人も愛した 京ぎをん浜作】支払いは映画会社持ちが当たり前の時代に… お代を自分で払った“生意気少女”美空ひばり (1/2ページ)

 女優で最も浜作に通ったのは田中絹代だ。田中は別格で「女優で『先生』と呼ばれていたのは田中絹代先生だけ」と当代森川裕之さんもいう。

 初回で触れた『偽れる盛装』に主演した京マチ子は大映の永田雅一社長とよく訪れた。ある時、永田ラッパの秘書が来て「うちの社長が今晩来ますが、座席の準備が…」と言うので、初代は「あんたの社長がうどん屋の2階に下宿してた時分から知ってるから心配せんとき」と丁重に追い返したという逸話もある。

 山田五十鈴も若い時から来ていた。後に当代が帝劇の楽屋にあいさつに訪ねると「パパ(初代)にはお世話になりました」と何度も言われたという。

 初代をパパと慕う女優は多かったが、森光子は東京に出る際に保証人に初代がなるほどだった。後年、南座公演の折、森は浜作を訪れ軽く食事をとった。翌日、当代は水ようかんを持って楽屋を訪ね、初代のこと、2代目のことを懐かしく語った。それが森の最後の南座公演となった。

 男優も監督も、初代は映画人からはお代を受け取らなかった。ひいきにしていた新国劇の辰巳柳太郎や島田正吾も同様だった。新藤兼人も入り浸ったが、「亡くなるまで先生からは1円もいただきませんでした」と当代は笑う。当時は映画全盛期で、スターも支払いは映画会社持ちだった。中には「○○という作品でツケておいてくれ」と言って、後から会社に問い合わせると「そんな映画はありません」ということも。自分で現金で払ったのは『幕末太陽傳』の川島雄三監督だけだったという。

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