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【ぼくらの90年代音楽論 30年前の「音楽」の「普通」】大谷能生×三浦千明(2) ヒットしている音楽が共通の「娯楽」だった (1/3ページ)

前回から続く)

千明:90年代だと、前半と後半でやっぱり私は全然、いろいろと違っていて。特にその頃10代だったからってこともあるかもしれないんですが、えーと、95,96年かな、そのくらいの時に、初めてカラオケに行ったんですよ。

大谷:あ、そうなんだ。中学生?

千明:中学三年生かな。その時は、まだ、親と一緒に行ったんですよ。しかも、カラオケ・ボックスじゃなくて、私、団地住まいだったんですけど、団地の敷地というか、その中に一個だけある、なんだろ、バー……じゃないなあ、飲み屋的なお店があって、そこにカラオケが出来た! っていう情報が入ったんですよね。それで「どれどれ」って家族と行った、みたいな(笑)。まだ友達と、子供たちだけで行くって感じじゃなかった、その時は。

大谷:飲み屋だしね(笑)。

千明:そうそう。だから、みんな「このあいだ家族で初めて行った~」みたいな感じにその頃からちょっとづつなってきて、で、高校入ったぐらいからカラオケ・ボックスが急にどんどん出来始めるんです。行動範囲の中に。ビッグエコーとかカラオケ館とか、そっからもう完全に、カラオケに通いつめる状態になって。

大谷:通いつめる(笑)。学校の周り、立川駅のあたりってことですよね。

千明:中学の時はカラオケ・ボックスは、まだ周りになかったんだけど、高校になると、もう急激に、「遊びはカラオケ!」みたいになった訳です。そうすると、ちょっと音楽の聴き方も変わってきて、「カラオケで歌いたい曲を探す」っていうのが入ってきた。「夜もヒッパレ」もよく見るようになったり、とか。

大谷:カラオケが娯楽として、高校生の娯楽として流行ってた訳ですね。直撃世代。

千明:もう、がっつり。放課後とか、普通に、「どうする? カラオケ行くかー」みたいな(笑)

大谷:このあいだ、ちょっと調べてたんですけど、通信カラオケが整備され始めるのが、ちょうど97年くらいみたいなのね。MIDIデータでカラオケのバックを作って、通信で送って鳴らすっていうスタイル。お店にはRolandのサウンド・キャンバスっていう音源が設置されてて、番号で曲の注文が入るとデータが送られて来て再生される(笑)。このシステムが出来たんで、カラオケ・ボックスの量産体制が整ったっていうね。

 ちょうどその頃に、周りのミュージシャンでMIDIできる人は、みんなカラオケの打ち込みのバイトをやってたって記憶があるんですよ。新曲も古い曲もどんどん作らなくちゃならなくて、この時代、初期投資として膨大な曲数が必要になった。だけど、かなりアナログな作り方で、みんな耳コピしてデータ化して納品してた(笑)。

千明:そのカラオケの打ち込みで、私たちが歌っていたと(笑)。