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【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】「賞レースはスタッフの闘い」の意識 自身は競争に対して非常に冷めていた (1/2ページ)

 デビュー2年目の1983年、6枚目のシングル『禁区』で勝負をかけた中森明菜だったが、作品自体はデビュー曲の『スローモーション』、その後の『セカンド・ラブ』『トワイライト~夕暮れ便り』の“バラード3部作”、そして“ツッパリ3部作”といわれた『少女A』『1/2の神話』に続く作品と考えると、明菜にとっては「初期の頃の『作り上げられた中森明菜像』だったのではないか」と当時ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で明菜のプロモートを担当した田中良明(現在は沢里裕二名義で刑事物の官能小説家として活動中)は振り返る。

 「当時のアイドル界は総じてスタッフの意向が強く働いていました。いくら明菜が急成長したとはいえ、その方向性を含めコンセプトはスタッフが決めていました。もちろん衣装も同じ。そのあたりは明菜にも不満があったと思いますが、それはそれで仕方のないことですからね。とはいえ、明菜の人気は“ポスト百恵”以上に、松田聖子さんと並ぶほどになっていましたから、どうしてもスタッフとの力関係は崩れ始めていた部分は否めませんでしたが…」

 そういう中で田中が感じていたのは、「確かに『禁区』は初登場1位をとり、『少女A』や『1/2の神話』と同様に反響を呼びましたが、それはキャッチフレーズ的な“妙”だと思います。しかも、マスコミはもちろんユーザーも“ツッパリ明菜”を演出したがっていたと思います。ですから『禁区』を含めた路線は自分そのものの人格を否定されるのではないかと快く思っていなかったようです」ということだ。田中は続ける。

 「実際、明菜自身は来生えつこ、たかおの姉弟による“バラード路線”のほうが好みでした。しかし、それが一つの戦略だったので、彼女との間に生じた多少のズレは仕方のないことです。それは明菜自身も理解していたので従ってきたのだと思いますけどね」

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