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【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】「無意味なワガママは言ってこなかったつもり」婦人公論で持論を展開 (1/3ページ)

 中森明菜にとって「すべての部分で分岐点となったのではないか」(音楽関係者)といわれるのがデビュー3年目である1984年だった。

 つまり84年から85年にかけての動きが、その後の活動においても大きなターニングポイントになったことは言うまでもない。そのための痛みもあった。制作現場でもディレクターの間で齟齬(そご)が生まれ、さらにはマネジャーや宣伝マンともギクシャクし始めたのもこの頃からだった。

 「スケジュールもタイトで日々追われていましたからね。彼女の心情を理解する以前に、状況を見ながら臨機応変に対応するだけで精いっぱいだったように思います。ですから現場のマネジャーは大変でしたよ」

 そう振り返るのはワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で明菜のプロモートを担当していた田中良明(現在は「沢里裕二」として作家活動)だ。

 「楽曲だけでなく、衣装でも明菜はアイドル的なミニスカドレスに疑問を持ち始めていましたからね。とにかく、雑誌取材のスケジュールを入れても、いざ撮影になると編集担当者が『着てほしい』と用意してくる衣装と、明菜がイメージする衣装に大きな開きがあるというか、アジャストしなくなってくる。もちろん事前打ち合わせはしていますが、いざとなるとどうしてもかみ合わなくなってしまう。もっとも明菜の衣装への考え方はハッキリしていて“読者はスタッフが選んだ衣装だとは思わない。(デビューする以前に)私が見続けていた『明星』や『平凡』など週刊誌のグラビアは、アイドルはみんな自分の好きな衣装を着ていると思っていた。読者はそういった見方をする”という理屈なわけです。ただ彼女の場合、どちらかというとひらめきを感情として表すことが多かったかもしれませんね」

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